その描写は作者にしかわからないものかもしれない

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さて小説における「客観性」というのはどういうものか。諸君の多くは「他人に読んでもらう」を前提に小説を書いていると思う。その場合「作者にしかわからん」「作者の中だけで常識化されている」描写というのは、出すのを控えたり出し方を考える必要がある。極端な話、文中に「その老婆は小学生のとき作者の隣の家に住んでいた山田の婆さんにそっくりであった。」という描写が出たら、その老婆の顔や雰囲気を推察できるのは作者とせいぜい作者の家族くらいである。ひろく一般にアピールできる描写ではない。

また、自分の中の好き嫌いや思想を元にして何かを書くとき。それが当然であり絶対正義であるという書き方をすると、高確率で燃える。人の思想なんて誰のものでもどこかに偏っているものだが、それが「偏見」まで行くと表現として注意しなければいけないし、されにそれを「当然」のように書くのはより問題が大きくなる。
自由に思うままに表現することは素晴らしいことだ。創作は人間にしかできない至上の悦びだ。だが本連載でも何度か書いているように、それを出す場所、見せる相手は慎重に吟味してしかるべきである。仮に諸君が誰にでも見える場所で差別的な表現を開陳する自由があると主張しその通り行動したら、激しい批判を受けることになる。
もしどうしてもそういうことをしたいなら、最低でもド批判される覚悟くらいは持つべきだ。他人や特定の属性を侮辱したり攻撃しておいて「批判するやつらは分かってない」「批判者の方が狂っている」「そんなつもりはなかった」みたいな言い草は道理が通らない。そして自分の表現が批判を受けるか受けないか分からないというのなら、それは「客観性筋」の鍛え方が足りないと考えよう。本を読もう。ニュースサイトを読もう。テレビや映画を見よう。誰かに相談しよう。いろんな人の話を聞こう。客観性筋はそれ以外の方法では鍛えられない。
他、細かいところで気をつけたいのは地域色である。方言、雑煮のモチの形や具、冠婚葬祭の風習など自分は生まれたときから接しているが実はごく限られた地域でのみみられるローカルルールだった、というものはままある。当たり前のように中にアンコが入ったモチで雑煮を作る描写をして作者の出身地が割れてしまうということもあり得る。地域色を出すなということでなく、それも物書きにとっては個性のひとつなので、せっかく出すなら「よそ」と「うち」の違いを認識したうえで効果的に出そう。ちなみに栃木県出身者は「だいじ?(大丈夫?の意)」が方言であることを知った瞬間に成人し、そのお祝いに宇都宮駅前の餃子の像の周りを三日三晩踊りながら回って成人の儀を行う。

今月のオススメ本はミステリの女王アガサ・クリスティ。しかしこの本では殺人は起こらないし名探偵も出てこない。『春にして君を離れ』は、ずばり「客観性」の有無がもたらす地獄を描いている小説だ。自他ともに認める良き妻良き母として暮らしてきた主人公がひょんなことから旅先の異国で一人足止めをくらい、長大な暇に押されるように今までの自分の人生を振り返る……という物語だが、この地味なストーリー、地味な登場人物、特に何が起こるでもない展開がいつの間にか背筋が震えるような緊張を伴ってくる。自分が思っていた自分は、本当の自分ではないのかもしれない。自分が今までやってきたことは、全て自分が思っていたのと違う結果をもたらしていたのかもしれない……それに気付いてしまうのが幸福なのか不幸なのか……。
一度読んだら一生自分の人生にも不安が付き纏うレベルのある種の恐怖譚だが、客観性、相手の立場に立つというものの重要さを嫌という程実感できる作品なので、ぜひご一読いただきたい。

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『春にして君を離れ』未読だったので、これから読んでみようと思います。

あ、全然関係ないですが、コメ欄で教えていただいた『オールラウンダー廻』1巻読みました。動きがわかりやすくて面白いです。

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