094609

『大友二階崩れ』で第9回日経小説大賞を受賞した赤神諒さんが、選考委員の辻原登さん・高樹のぶ子さん・伊集院静さんに「純文学とエンタメの違い」について質問しました。


赤神氏 純文学とエンタメの本質的な違いというものはあるのか、ヒントをもらえたらと思います。

高樹氏 こんな難問は誰も解けません。私は今、芥川賞の選考委員をしていますが、選考委員全員に「純文学って何ですか」という質問を出したら、十通りの純文学が出てくると思います。ある意味では、純文学というのは子供。子供という言い方が悪ければ、作家が必死に抱えている子供としての自意識が確信犯的に書かれている。そこに技術は多少は要るのだけど、尊大な自我として表現されている面はあると思います。

辻原氏 赤神さんは高校生の時にドストエフスキーを面白く読んだそうですが、ドストエフスキーの作品というのは、まさに赤神さんの質問に答えているんじゃないかな。「カラマーゾフの兄弟」とか「罪と罰」を念頭に置いて小説を書けば区別をする必要はなくなるでしょう。

伊集院氏 愚問だよ(笑)。トルストイの「戦争と平和」だって、チェーホフの「桜の園」だって、書き上がったときはエンターテインメントという形で取り上げられているから。エンタメと純文学の違いというのは、ヘルメットが何色だったらよく打てるかみたいな話にしか聞こえない。だから違いはないです。



ニコニコ大百科では、「純文学」と「大衆小説」の違いを以下のように説明していました。
今日の世界においては芸術と全体化した商業娯楽の区別が漠然としているので、どこまでが純文学小説でどこからが大衆小説なのかというのは、よく分からないっちゃあよく分からないし、一般の読書家からするとどうでも良くなりつつある。

事実として、演劇興行・映画・ドラマ・アニメ・漫画といった近現代型の隣接ジャンルの世界では、芸術的・文学的な価値をとことん志向した(お堅い)作品と娯楽性重視の作品をちゃんと分けようとすることが、そもそもほとんどない。確かに文学映画というジャンルがあったり、「この作家は人間の生き方や不条理に深く切り込んだ骨太系の作品をつくりますよね」みたいな話をしたりはするが、フィールドとして分けてしまおうという考えは普通ないだろう。

しかし(日本語の)小説というジャンルでは、文学界(文壇というやつです)が文学を語るために「純文学」という世界と物差しを用意した一方で、それとは異なる評価軸の中で大衆小説が大衆小説として栄えすぎてしまったので、未だに時々「この作品は純文学というには通俗的すぎるしあっち(大衆小説)の作品と見なすべきだ」「あの人は傑出した純文学作家だね」みたいな話もされたりするわけである。


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管理人は「比較的古い文脈で表現したいと作者が意識して書いているもの」が純文学で、「最近出回っているスタイルで書かれているもの」がエンタメなんじゃないかと考えます。



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