劇場
装画=大竹伸朗「路上1」1990年/装幀=新潮社装幀室/発行所=新潮社

『火花』で芥川賞を受賞した又吉直樹さんの二作目の小説です。劇団の脚本・演出としてくすぶり続けている主人公が、神様のように優しい女の子と出会って、くすぶりを延長してしまう話です。
『火花』はイカレポンチの神谷を徳永の視点から観察する話でしたが、『劇場』は主人公の永田自身がイカレポンチです。二つの作品を読んで思ったのは、又吉さんは「不変」を愛しているんじゃないかな、ということでした。それも、ダイヤモンドの永遠の輝きを愛でるのではなく、路傍の石が路傍の石でなくなることを恐れているような感じです。

世の中の多くの物語は「変化」を積極的に描いています。主人公の「成長」は感動的なもの、組織の「腐敗」は糾弾すべきものと、それぞれに方向性は違っても、時間の流れと共に生じる変化が重要な要素となります。ところが、『火花』では徳永が神谷に対していつまでも神谷のままでいてほしいと願っていました(少なくとも僕にはそのように読めました)し、『劇場』の永田もありのままの自分でいることに固執しているフシがあります。他者との関わり合いによって多少の変化はあるのですが、そこにも「変化した」というより「変化させられてしまった」という無念のニュアンスが漂っています。

クズがずっとクズのままでいたいと叫んでいるような小説です。この率直さには脱帽するしかありません。変化を拒む心というのはわりと普遍的なものですが、それをこれほど恥ずかしげもなく書いている作品は、現代ではかなり珍しいのではないでしょうか。

食材を送ってくれた沙希のお母さんにケチをつけたり、原付を壊したり、光熱費さえ払わなかったりと、そのクズっぷりは枚挙にいとまがありません。しかも、「その時は確かにそう思ってしまったんやからしょうがないやん」「クズってことは自分でわかってんねん」的な文脈の地の文で言い訳をするという、二重のクズ構造です。まともな神経の読者なら、イライラがつのって途中で本を投げ出す可能性が十分にあると思います。



公演の悪評がネットにばーっと書き込まれる、という点だけ違和感があったのですが、『劇場』の時代設定は一昔前だったんですね。「おろか」という劇団が旗揚げしたのは「インターネットが普及して間もない頃」となっています。これはいわゆる「小劇場ブーム」と一致する時期です。当時は無名の劇団でも「酷評してもらえた」のかもしれませんが、今は基本、無視されるだけです。

一般人が劇団を旗揚げして成功できる可能性は、小劇場ブームの頃も相当低かったはずですが、今はさらに下がっています。批評をもらう機会、つまり「成長」する機会がほとんどないからです。

永田が「演劇のことばかり考え続けられる」のは間違いなく才能の表れと言えます。今よりは恵まれた時代でしたし、沙希という逃げ場にさえ出会わなければ、演劇人として成功していたかもしれません。




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