【晒し】薬師の弟子

2022年1月24日


今回は管理人作品です。
去年の大晦日は一人称の軽いやつを書きましたが、今年は三人称の重いやつを書いてみました。

約10000字の掌編です。
一応R18としておきます。
なろうだったら適切なタグをつけないとクレームが来るやつかもしれません。

今までずっと一人称 or 三人称一元視点で書いてきたので、三人称神視点はこれが初めてです。
読みにくいところがあったら教えてください。
他にも何かお気づきの点がありましたら遠慮なくご意見ください。
重箱の隅をつづくようなことでも歓迎です。

今年もご訪問ありがとうございました。
2周年のご挨拶以降、記事の更新時刻を
8:20・12:20・16:20・18:20・20:20・22:20
としていましたが、朝~昼は伸びる気配がないのと、Google先生のご機嫌が治らず(´;ω;`)1日に6本も更新しても大した収益にならないので、1月からは
16:20・18:20・20:20・22:20・0:20
のうちの4~5回(晒しは例外的に8:20)とさせていただきます。
来年も読み速をよろしくお願いします。



 

薬師の弟子

弓を支える左腕に、握り拳ほどもある深緑色の蜘蛛がぽとりと落ちてきて、トクサは悲鳴を飲み込んだ。
白く長い産毛が全身隅々まで、それこそ脚の節まで覆い、赤黒い複眼が飛び出ている。見るからに有毒。だがトクサの右手はすでに矢を引いている。その手で払うわけにはいかない。
まだか。
茂みに身をひそめるトクサの視界の先では、女薬師のアサギが槍を構えている。
サライガラスに狙われていた。この大型の猛禽類は一度定めた獲物を執拗に何度も襲い、相手が疲れ果てたところを捕え、雛の餌として持ち帰る。餌にするのではなく持ち帰った生き物を育てているのだというおぞましい説もある。
(ぐっ……!)
噛まれた。左腕。
燃えるような痛みが肩まで走る。
毒の程度によっては左腕が二度と使えなくなるかもしれない。一度矢を離して払うべきだったか? しかしその隙にサライガラスが来ていたら先生が危なかった。先生のことは俺が守るんだ。命に代えても。
トクサは左手の指先に強い痺れを感じた。そして蜘蛛はまだ腕の上にいる。
まだなのか。
来てくれ、早く!
そう念じた時、サライガラスの鋭い鉤爪がアサギの槍の柄をつかんだ。まさに刹那の出来事であった。サライガラスは音もなく背後からアサギを襲い、アサギはすぐさま反応して槍で防いだのである。
そして次の瞬間、トクサが右手を離し、放たれた矢はサライガラスの足の付け根に突き刺さった。矢尻に塗られたウバステグサの毒が稲妻のように血管を走る。
漆黒の巨鳥はぐらりと体を傾げ、地に伏したが、絶命してもその鉤爪は槍の柄をつかんだままであった。

「……! 先生」
目覚めたトクサは、アサギの背中の温もりに慌てた。
真夏の太陽のように美しく力強い薬師は、器用にも弟子を背負ったまま二人分の荷物を抱え、歩みを進めていた。
「すみません、自分で歩きます」
「いいさ、まだしばらく休んでな」
「でも……」
「それより、気分はどうだい」
左腕の患部には布が当てられ、さらに別の布できつく上腕が縛られている。まだ痺れはあるが、痛みはだいぶ和らいでいた。
アサギが花のような唇で毒を吸い出してくれている間、意識をなくしていたことを、トクサは惜しいと感じた。同時に、そんな邪なことを思う余裕があることに気づいた。
「手当て、ありがとうございます」
「まったく、無茶をする」
「すみません」
「あんたには助けてもらったんだし、小言を言うつもりはないけどね、トクサ」
「はい」
「薬師は自分の体を大事にしなきゃいけないよ。私たちが倒れたら誰がみんなを治すんだい?」
「……はい」
トクサは村で伏せっている人々のことを想った。粗末な筵の上、弱々しい呻き声を上げながら、少しでも楽な姿勢を探して寝返りを繰り返している。自分たちが薬を持ち帰らなければ、村は滅びる。
左の拳を握り、どうにか力が入ることを確かめると、トクサは「もう本当に大丈夫です。自分で歩きます」と言った。
アサギは「よし」と言って、膝をついた。

トクサたちの住むミビツシの村から、施薬院のあるコクヨウの村まで片道三日。旅の障害となるのは、山道の険しさ、野生動物、そして人間である。
行く先の樹上の気配に、アサギとトクサは同時に気づいた。しかし二人は何も言わず、軽く目配せをしただけで、そのまま歩き続けた。
悟られていることを知らない野盗は、錆びた刀を逆手に握り、梢からアサギ目掛けて飛び降りた。そして、アサギの鋭い視線が己を捉えた時、空中で死を覚悟した。
串刺しにせんと繰り出しかけた槍を、アサギは慌てて返し、石突きで野盗の胴を打ち払った。というのは、相手が年端も行かぬ少年だったからである。
「刀を捨てろ」
弓を引くトクサの冷たい声が響いた。
地面に転がった少年は、獣のような瞳でアサギを睨みつけ、歯を食いしばりながら立ち上がった。
器用に受け身を取っていたがどこか折れているかもしれない――とアサギは思う。
「もう一度だけ言う。刀を捨てろ」
七つか、八つ。相手はおそらく自分の半分ほどしか生きていない子供だが、トクサは気を緩めない。
「殺せよ」
噛みつくように少年が言った。
「もう三日も食ってない。それに、今日何も持ち帰らなきゃ、親方に殺される」
「お前の事情なんか知るか」
トクサは少年の敏捷さを警戒している。この距離ならきっと一瞬で間合いを詰めてくるはず。
「これで最後だ。刀を捨てろ」
「殺して取れよ」
「素手の子供なら見逃しても怖くない」
「誰が見逃せなんて言った?」
少年が微かに膝を溜め、突っかけてこようとするのをトクサは見逃さず、弓を支える左手に力を込めた。傷の痛みは意識の外にあった。
一触即発の二人の間に、小さな革の袋が落ちた。
「それを持って消えな」
アサギの言葉に、トクサは耳を疑った。
「先生、何のおつもりですか」
アサギは答えない。そして、少年に対しても何も言わない。
もうこんな真似はやめろ。親方とやらの元を離れて、真っ当に生きる道を探せ。――そんな綺麗事が通じるはずもない。彼だってできるならそうしたいに決まっている。生き方を選ぶ立場にないのだ。
彼を今の境遇から救ってやる暇も義理もない。だが、この場で死なせるのは忍びない。金と食糧をくれてやるのはアサギなりの妥協である。
少年は唖然としていた。今まで他人からの施しを受けた覚えがない為、アサギの行動がただただ理解できずにいる。
「先生!」
トクサが弓を構えたまま、再び抗議の声を上げた。
「たった一日分の食糧とはした金だよ」
「この際食糧は構いません。しかし金は……」
当時、村内では物々交換が基本であり、金は交易にのみ用いられる貴重品である。
村中からかき集めたなけなしの金。薬の代金と、コクヨウの村に至るジムングの橋の通行料とを合わせると、余分はない。
「足りるさ。通行料は何とかなる」
「……」
「さぁ、もう行こう」
そう言って、アサギは少年に背を向け、さっさと歩き始めた。
トクサは迷った。少年が改心するとは思えない。放っておけば背後から襲われる可能性もある。せめて刀だけでも奪うべきでは?
しかし、アサギが十歩ほど先へ行ったところで、ついにトクサは弓を引き絞るのをやめ、「次は殺す」とだけ言って、師の後を追った。

日が暮れて、二人は適当な木の根に腰を下ろし、雑炊と干し肉の簡素な食事を済ませた。
「都の子供でしょうか」
と、トクサが昼間の少年について言った。
「だろうね」
と、焚き火を見つめながらアサギが答えた。
ミビツシの村には都とやらに行ったことのある者はいない。一度だけ、都の商人が村を訪れたことがある。少年の服装はそれとよく似ていた――ひどく傷んではいたが。上衣と下衣が分かれていて、トクサたちが着ている貫頭衣とは明らかに異なる。
「都はとても豊かなところだと聞いていましたが……」
「……親方とやらは、豊かなんだろう」
アサギは少年の身なりと言葉から、都をその目で見ることなく、強者が弱者を虐げる構造を察していた。
都の現状はおおよそアサギの考えた通りである。王と貴族の住まいは豪華だが、最下層の人間は「未開」の村々より貧しい暮らしをしている。
「トクサ」
「はい」
「甘かったと思うかい」
刀も奪わずに逃がした。自分の甘さのせいで、見知らぬ旅人が襲われるかもしれない。
「でも先生は、どうしても救いたかったんですよね」
一見気丈そうに見えるアサギの内面の脆さを、トクサは好ましく思う。それを見せてくれることも信頼の証と受け取っている。
「目の前の人間を救いたいから、先生は薬師をされているのでしょう」
「逆だよ。薬師だから、目の前の人間を救わなきゃと思ってる。薬師になったのは親の後を継いだだけさ。弟が死んで、私しかいなかった」
「……」
「トクサ、お前一人なら、最後にはあの子を殺していただろう。そのほうがよかったかもしれない。より多くの人間を救うには非情になるべき時もある」
「そんなに悔いておられるのですか」
「いや、何もかも私の真似をしなくていいと言いたかったんだ。お前はお前なりの薬師を目指せ」
「……」
「傷は痛むか?」
「いえ、もうすっかり」
嘘である。弓を引いた後、また痛みがぶり返してきていたが、これ以上問題事を増やしたくなかった。ジムングの橋の通行料をアサギがどうするつもりなのか、トクサは知らない。
「……寝ようか」
「はい。おやすみなさい」
「おやすみ」
二人は横になり、目を瞑った。
焚き火のはぜる音と、名も知らぬ虫たちの鳴き声が、ひっそりとあたりを包む。
ひどく疲れてはいたが、トクサは寝付けず、目を開いた。木々の間に星々が見える。夜空の広さを前にして、自分はひどくちっぽけだと感じた。
寝付けないのは、傷の痛みより、アサギがすぐそばで横になっているからである。
健全な男子であるトクサは――重責を負った旅路にそんなことを考える自分を恥じながら――何かが起こることを心のどこかで期待していた。年は九つも上だが、女のほうが上ではいけないという決まりはない。
「……」
これが叶わぬ恋であることをトクサは理解している。
村では男子が十二になると許嫁があてがわれる。誰と誰が夫婦になるかは長老たちが寄り合いで決める。子供に逆らう権利はない。
トクサにもノシメという許嫁がいる。
ノシメも十分かわいらしい女だ。幸運と思わなければ。――そんなことを考えている時点で、アサギと比べていることを認めないわけにはいかない。
あと五年もすればノシメもアサギのようになるだろうか。どうもそうは考えにくい。顔の造形も体つきも、まったく別の生き物としか思えない。
トクサは物心つかぬうちに両親をなくしていて、アサギは師である以前に姉代わりであり母親代わりでもあった。つまりはすでに家族である。そんな相手に惚れるとはとんでもないことなのではないかと一時は悩んだ。しかし、自分の身体の成長に伴い、アサギと結ばれたいという思いが抑え切れなくなっていた。
彼女が独り身でなければトクサも諦めざるを得なかったかもしれない。無論アサギにも許嫁はいたが、夫婦となる前にその相手は病で死んでいた。
アサギは、美しかった。目が大きいのに顔全体は小さく、遠くにいても目立つ。背はトクサよりわずかに高く――あと少しで追い越せる――胸が豊かで、足腰は日々の薬草探しで引き締まっている。
ノシメとも違うし、他のどの女とも違う。アサギがいつか村の老婆たちのようになるとトクサには思えない。アサギはアサギのままで歳を取っていきそうな気がする。
(もしも、今、先生の体に触れたら)
できるわけがないとわかっている。けれど、何しろすぐそばで、寝息を立てている。
下腹のあたりが疼くのを感じながら、トクサは自分を戒める。
(馬鹿め、それどころではないだろう)
ノシメも病に倒れた一人であった。
肌が白く、常に控え目で、気配りができる。アサギが大輪のボタンならノシメはスズランの花。村の男友達は、言葉にこそしないが、彼女をあてがわれたトクサを羨んでいる雰囲気がある。
ノシメを――許嫁を助けるための旅だ。この旅を通して俺たちは夫婦になるのだと、出立前、トクサは思い定めていた。
眉間にしわを寄せ、苦しげに呼吸をしているノシメの顔を思い浮かべることで、トクサはようやくアサギへの劣情を振り払った。

◆ ◆ ◆

「私が支払います」
「何を言ってる? 金はないんじゃなかったのか?」
「ええ、ですから、私が」
アサギは――世の男たちが自分をどう見ているか知っている。トクサが例外でないことも。
ジムングの村長がニヤリと口角を上げた。部屋中の男たちの視線が自分の身体を舐め回すのを感じながら、アサギはトクサに心の中で詫びた。
(軽蔑しただろう。それでいいんだ。お前にはノシメがいる)
ミビツシの村にはない、板張りの床に正座して、トクサは発狂する寸前であった。
先生が、払う?
どういう意味だ。
金ではなく、先生が。
まさか。
違うと言ってくれ。
けれど、男たちのあの目、汚らしい笑み。
やはりそうなのか。
駄目だ!
そんな、ただ橋を渡るだけのために、どうして先生が。
「精一杯努めさせていただきます故……」
艶やかなアサギの声が室内に響く。
愛弟子を思ってのことであるとは言え、胸が痛んだ。
(いつかわかってくれるだろうか。……いや、そんなことを望んじゃいけない。あばずれだと思わせたほうがこの子のためなんだ)
トクサは拳を握り、膝の上に視線を落として、アサギを救う方法を探している。
今すぐアサギの手を引いて走り出し、追手は一人残らず射倒す。橋の見張りも射倒して、コクヨウの村まで駆ける。――そんな絵空事を、本気で考えている。
そもそもあの子供のせいで……と、ここでトクサは気づく。
「通行料は何とかなる」。先生は確かにそう言った。
では、あの時から先生は身を売るつもりだったということか?
あり得るか、そんなこと!
あんな見ず知らずの子供のために!
「お弟子さんには寝床を用意させよう」
「ありがとうございます」
話がまとまったらしい。
先生、どうして。
身を売ってまで人を救おうとするのが薬師なのですか。
それとも……
……
……考えたくはない。
けれど考えてしまう。
先生は、そういうことが、好きなのですか?
喜んで男と寝るのですか?
「どうした、坊主」
自分に声が当たるのを感じて、トクサは瞳孔が開いたままの目で村長を見た。
「なに、心配するな。手荒な真似はせんさ。大人同士、ちょいと楽しむだけだ」
本気で親切げに言うその男の、肉体に、トクサはこの世から消えろと念じた。
あの大きな手が。
髭に覆われた口が。
今宵。
先生の身体を。
「それとも坊主、お前も混ざるか」
どっと起きた笑い声を、トクサは生涯忘れないだろう。

トクサには酷なことだが、実際、アサギは男と交わることが嫌いではなかった。村長の見目も悪くはなかったし、見目にこだわるほうでもない。
それは生殖行為であると共に――あるいはそれ以上に――貴重な娯楽である。ミビツシの村でも、表面上は一夫一婦でありながら、裏ではかなり自由な恋愛が行われている。男女共に「浮気」に寛容な社会であり、兄弟が似ていなくても驚くに値しない。
だが。
そんなことは、トクサには関係ない。
知っている者と知らぬ者との間には果てしなく高い壁がある。アサギにとってのそれは人生の中の一度に過ぎないが、まだそれがどんな風であるか知らぬトクサは「ただの一度」では済ませられない。重みが違い過ぎる。
案内された部屋の柱にもたれて、トクサは暗闇を見つめていた。そして、幼い頃に見たアサギの裸体の朧な記憶を、思い出そうとしたり打ち消そうとしたりしていた。
村の男友達が数名連れ立って、男女の密会によく使われるという巨木の洞を覗きに行ったことがあったが、トクサはその輪に加わらず、話も聞かないようにしていた。興味がない振りをした。
トクサは、見たことすらない。
想像すらできないということが嫉妬を加速させた。
今頃先生はあの男と。
会ったばかりなのに。
どんな顔をして。
体のどこを。
どんな風に。
どんな声で。
(無理だ)
トクサは立ち上がった。
それから、足音を忍ばせ、小屋を出た。
誰かに見咎められたらそれまでのこと。
見たい。
浅ましいが、どうしても見たい。
知らずにはおけない。
何もかもを捨てる覚悟で、トクサは村長の家を目指した。
村中寝静まっている。かがり火は焚かれていないが、月明かりが眩し過ぎるほどだった。
そして、すんなりと辿り着いてしまった。厚手の布を垂らした入り口をくぐると、奥のほうから、聴こえてきた。
聴いてしまった。
トクサは下腹部に疼きが集まっていくのを感じながら、息を殺して声の元へ進んだ。

天井に穿たれた穴から差し込む光の中で、アサギは、上になっていた。
潤んだ瞳が、こちらを見た。
明らかに目が合ったのに、アサギは動きを止めることなく、優しく微笑んだ。
トクサはたまらず右手で自身をつかみ、見ていることしかできない自分を慰め始めた。

「……」
首筋が痛む。
柱にもたれたまま、あからさまな夢を見ていた。
夢で良かったと安堵する一方で、夢の中ではとにかく見ることはできたという安堵もあったから、何も知らないままだという絶望もあった。
今日、先生の顔を見ることができるだろうか。
その不安は、強い違和感にかき消された。
(……何だ……?)
左手が何かおかしい。
握ろうとしてみると、小指だけ握れない。
右手で左手の小指に触れて、背筋が凍った。石のように固くなっている。曲げようとしても曲がらない。幸い痛みこそないが、触覚さえなく、自分の体の一部とは思えない何かに変容している。
慌てて二の腕の包帯を解いてみると、患部を中心に血管が灰色になって浮き出ていた。
どういう毒なんだ、これは。
想像は容易につく。動かせない部分が少しずつ広がっていき、やがて全身固まって死ぬ。
俺は死ぬのか。
こんな症状、見たことも聞いたこともない。施薬院まで行けば薬はあるのか。いや、あっても払える金がない。まさかもう一度先生に体を……もはや一回も二回も同じか?
プツンと、頭の中で何かが切れる音がした。
(死なせてくれるなら、それでいい)

それからのことを、トクサはあまり鮮明には覚えていない。
特にアサギと顔を合わせた瞬間については、記憶することを脳が拒んだ。
昨晩、寝たのだ。
男と。
自ら望んで。
体中を触らせ、体中を触っただろう。
夢で聴いたような声をきっと本当に上げていたのだろう。
好いてもいない男と、唇を、腹を合わせたのだ。
左腕の状態に戦慄しながらも、アサギの身に起こったことを忘れたわけではなく、トクサはあえて意識するという手段に出た。心はなますに刻まれたが、抗う辛さからはある意味で解放された。
自然に任せ、この人は昨晩男に抱かれたのだと強く意識しながら、
「おはようございます」
と、おそらくトクサは言った。
そして、左腕の不調を巧妙に隠しながら、ジムングの橋を渡り、コクヨウの村に辿り着き、目的の薬を手に入れた。
帰路は拍子抜けするほど平坦であった。アサギは一夜で往復分の支払いを済ませている。
「無事、薬は買えたか?」
まるで自分の女であるかのように親しげに語りかける村長の表情も、トクサの記憶からは排除されている。
きちんと服を身に付けているのに、両者の間には一度肌を合わせたという事実がピンと糸を張っていた。
知っているからそう見えるのか、知らなくてもそう見えるのか、この時のトクサには判然としなかった。
俺にはノシメがいる。
そうとも、俺にはノシメがいる。
帰路の三日間でトクサは少しずつアサギへの淡い恋を捨て、許嫁への想いを強めていった。傍から見れば何とも都合のいい切り替えだが、それはアサギが望んだことでもあると同時に、トクサが正気を保つ唯一の方法だった。
待っていろ、ノシメ。この薬でお前を助けてやる。俺の左手はもう中指まで動かない。おそらく長くは生きられないだろうから、俺が死んだら誰かいい人を見つけてくれ。勝手なことを言っているが、俺は心からお前に幸せになってほしいんだ。

◆ ◆ ◆

ミビツシの村まであと少しというところで、苔むした倒木に少女が腰掛けていた。
「トクサ!」
と、手を振る許嫁の明るい声に、トクサは面食らった。
「どうしたんだ、ノシメ」
「おかえりなさい」
「寝てなきゃ駄目じゃないか」
「トクサ、あのね、もう良くなったの」
ノシメはその言葉を「病が治った」という意味で使った。しかしトクサには「不要になった」という意味で刻み込まれた。
アサギはノシメの顔色を見て、虚勢や一時的な小康状態ではないと感じた。
「自然に治ったのかい?」
「いえ、アサギ様。旅の薬師様がお薬を恵んでくださったのです」

陽射しのせいばかりではないだろう。村全体が明るい。その中心に、黒い外套を羽織った見知らぬ男がいた。
旅の薬師と聞いてトクサは壮年か老人を想像していたが、男の顔はどこか幼く、同い年か少し上ぐらいだろうと思われた。
「アサギ先生と、弟子のトクサさんですね。僕はヒロキといいます」
呆然としているトクサを気にかけつつ、アサギが頭を下げた。
「ヒロキ様。このたびは村を救っていただき、ありがとうございました」
「すみません。僕がもう少し早く立ち寄っていれば、お二人に苦労をかけずに済んだのですが……」
「とんでもないです」
「とにかくみんな助かって良かったです」
「よろしければ、どんな治療をなさったのか教えていただけませんか」
「ええ、喜んで」
コウセイブッシツという言葉が聞こえたが、トクサの耳にはそれ以上話は入ってこなかった。
無駄足だった。
俺たちと無関係に、村は救われた。
先生が体を売ったのも、俺が毒に冒されたのも、何の意味もなかった。
(俺は……)
薬師のくせに人が救われたことを素直に喜べないのか?
帰ってきたらみんな死んでいる可能性すらあった。
とにかくノシメが助かったんだからいいだろう。
(……無理だ。喜べない)
俺は、俺が、助けたかった。
あれだけの犠牲を払ったのだから。
報われて、感謝されたかった。
「ご苦労だったな、トクサ」
「ご無事で何よりです、アサギ様」
村人たちは口々に二人の旅を労ったが、未だ誰も感謝を述べていない。
事実として病人を救ったのはヒロキである。そして、村人たちには二人に無駄足を踏ませたという気後れがある。感謝の言葉が出づらいのも無理からぬかもしれない。
そんな時こそ、率先して感謝を口にするのがノシメであるはずだった。
「トクサ……トクサ!」
「! はい」
思考の雲に覆われて、トクサは数瞬の間アサギの声に気付かずにいた。
「どうした、疲れているのか? 施薬院で買ってきた薬をヒロキ様に見せてやってくれ」
「はい」
様をつけて呼んでいることに釈然としないものを感じながら、トクサは腰に結んだ皮袋をほどき、乳白色の薬瓶をヒロキに手渡した。
「ふむ、これは……」
ヒロキは薬瓶の蓋を開けると、中の白い粉を少量手に取って、匂いを嗅ぎ、舐めた。そして、
「お二人とも、とても残念ですが……」
一語一語、言い聞かせるように言った。
「これは、薬ではありません」
ヒロキの言葉は、トクサには無論のこと、アサギにもすぐには理解できなかった。
時が止まったかのようになっている二人に対して、ヒロキはゆっくりと語った。
「薬ではないという言い方は語弊がありました。薬には違いないのですが、有害かつ依存性のある危険な薬物です。病を治す力はありません」
「しかしそれを飲めば患者は」アサギが絞り出すように言う。「気分が良くなると」
「そう。気分が良くなるだけです。たまに病が治るのはただ自然に治っただけであって、これの効能ではないんです。僕の故郷ではアヘンと呼ばれています」
「毒だったっていうのか」トクサがつぶやくように言った。
「そうですね。毒とお考えください」
「嘘だ」
「信じられないのも無理はありません」
そこで言葉を切ったことは、ヒロキの思いやりと言えるだろう。
高価な薬と信じて買ってきたものがまさか毒だったなどと、初対面の人間に説明されて受け入れられるわけがない。
(嘘だ。嘘に決まっている。こいつは何か目的があって村を陥れようとしているんだ)
「ご教示、感謝します」
アサギの言葉に、トクサの思考は停止した。
「いいかい、トクサ。この方は私たちよりずっと進んだ知識を持ってる。人を救うには、昔のことにこだわってちゃいけない」
「ご立派なお考えです」
「ヒロキ様、私を弟子にしていただけませんか」
「あいにく使命がありますので長居はできません。一月で教えられる限りのことをお教えする、ということでいかがでしょうか」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
尊敬していた、そして、恋焦がれてもいた師匠が他人の弟子に成り下がるところを、トクサは無表情で眺めていた。

その日の晩。患者たちの快癒とアサギたちの帰還を祝って、宴が開かれた。
ヒロキに酌をするノシメを見て、不幸にもトクサは、察した。
(この二人)
帰路、ジムングの村で村長とアサギの様子を目にしていなければ、気付かなかったかもしれない。
その時と同じ、秘密めいた甘ったるい匂いがした。表情や距離感が赤の他人同士のものではなかった。
(寝たのか)
ノシメは聡い女である。初夜でトクサを悲しませぬよう、最後まではしていない。が、ヒロキから色々と手ほどきを受けたことは事実である。
トクサがアサギに惚れていることをノシメは知っていた。まずこれが前提としてある。
そこへヒロキが現れた。命の恩人であり、物腰が柔らかく、許されるものならこの人の妻になりたいと思った。そうとまで思ったなら、誘いを断る理由はない。
ノシメは聡いが、若い女である。言うなれば、浮かれていた。トクサが勘付くなどとは夢にも思わず、酌の仕方で、相手が特別な存在であることを躊躇なく表現していた。
「その左手」と、出し抜けにヒロキが言った。「生まれつきですか?」
「……」
上手く隠していたつもりだったが、見抜かれていたか。まぁ仕方あるまい。すでに薬指まで固まっている。もはや弓を持つのも難しいだろう。
「お気に障ったならごめんなさい。よろしければ診せていただけませんか。お力になれるかもしれません」
「結構です」低い声で、独り言のようにトクサは言った。「生まれつきです」
診せれば確かに治るかもしれない。
それでもトクサは、強い意志を持って、ヒロキの世話になることを拒んだ。

◆ ◆ ◆

翌朝、まだ村中が寝静まっている頃、トクサは一人で身支度を整え、村を出ようとしていた。
そこをアサギに見つかり、ごく簡潔に、「長い間お世話になりました」と言った。
「どうしても行くのかい」
「何もかも言われた通りにしなくていい。自分なりの薬師を目指せとおっしゃったでしょう」
「お前は気に入らないかもしれないけどね、トクサ、薬師の道を行くならヒロキに学ばないのは遠回りだよ」
「どんな理由があろうと、もうこの村にはいられません。先生、今までありがとうございました」
アサギの返事を待たずにトクサは歩き始めた。
足が動かなくなる前に、できるだけ眺めの良いところを探すつもりだった。

(了)