文学の肝は「冗長」にある
「知性」を一言で表すなら、「ためらうこと」。
何か判断を迫られた時、様々な知識や知恵があると、待ったがかかる。本当にこれでいいか?他に方法はないか?と。
つまり、知性とは遅いもの。資本主義が尊ぶ早さとは真逆。
だからゲーテは、フランス革命の性急さを火成岩に、知性を深成岩に喩えた。— スケザネ@YouTubeスケザネ図書館 (@yumawata33) January 7, 2021
そして、その遅さを体現した芸術が文学です。
文学の肝は「冗長」にあります。
スピーディに起承転結だけを語れば済みそうなのに、挿話や描写が長々と続く。
そこには深成岩の生成のような、時間をかけて出来上がる冗長の美がある。
そこに文学の妙味があり、早さにかまけて忘れたものが眠っています。— スケザネ@YouTubeスケザネ図書館 (@yumawata33) January 7, 2021
みんなの反応
これ、めっちゃ響いた……。SFくらいしか小説読めなかったんだけど、なんかちょっと新しい世界開けた音がした。
↓
文学の肝は「冗長」にあります。 https://t.co/KzbgV1RF57— ハモンᴮᴱ (@amnesiac0511) January 7, 2021
だから哲学や文学はepochéとかnegative capabilityと言い方は違えど、結論に飛び付かないことを説いてきたんだよね。
すぐに敵か味方か、あっちかこっちか、白黒付けようとする癖はいつの時代の人間も持っているんだろうけど、最近特に目立つ気がするな〜。 https://t.co/eKWfj890TI
— みー (@littleikarus) January 7, 2021
起承転結のみを記したあらすじに「もののあはれ」を足すことに意味がある
— 絹谷 田貫@名誉テキストゴリラ【∃】 (@arurukan_home) January 8, 2021
近年やたらと「本の要約」が持て囃されることの違和感の正体がこれでした。
何気ない、そして美しい地の文が排除され、起承転結で本が語られる。
無駄が無く、筋肉質とされる資本主義には、冗長な情緒を愛さない物寂しさがありますね。 https://t.co/x1W0uxt7bd
— hit (@hit31990397) January 7, 2021
こういう意見があるのはわかる。
だけどね、新美南吉は文学の冗長性を簡潔と明快と生気がまず失われ、文章は冗漫に、あるいはくどくなり、あるいは難解にして無意味な言葉の羅列になった。同時に内容の方では興味が失われ、ダルになり煩瑣はんさになってしまったと批判しているんだよね。 https://t.co/zhUDCV00hA— 春村 (@harutomura) January 8, 2021
ためらったり自省したりした人間はみんな潰されてるのでは。
ポリコレという「ためらわない」暴力、知性なき恫喝が最優先になっている。https://t.co/SpZOFOizHm
— 上山和樹 (@ueyamakzk) January 8, 2021
この主張の全てが正しいとは思わないが、見るべき点はあるだろう。 https://t.co/X9aCYRgpAW
— ストライP (@11111010RR) January 8, 2021
「同感できても、もう一度考えるがいい。同感できなくても、もう一度考えるがいい」『礼記』
— ゴールドダンサー (@golddancer) January 7, 2021
世の中どんどん加速してますからね……
ディスカッション
コメント一覧
文芸反知性主義とでも言うべきリテラシーの劣化を端的に示すのが
「戦闘シーンなんてキンキンキンキンでいいんだよ」とか言っちゃう読者の存在
それもう地の文いらないよね
キャラ名と勝敗の○×だけ書いてある対戦表でいいよね
なろうよりためらいが無い…
「冗長を大切にする文学」においては冗長に肝があるだろうが、それを文学全体論にすげ替えるのはださい。
似非フェミと同じく、自分を上げるために自分の土俵を信仰してるだけ。
制作過程の冗長(推敲)の話かと思ったら違った。
出来上がった作品に見られる冗長は、
絵画・マンガ・映像・舞台・口伝などにも
あると思うけどなぁ。
> 文学の肝は「冗長」にある
まあ嘘ではない、他のものにもあるというだけ。
肉付けが重要なのは同意だけどそれを冗長という言葉で表すのはちょっと違うと言える余地があるかもしれないかな
私はこれを認知的完結欲求の話として見た。
すんなり合点がいくし、そんな概念存在しなかった時代にそれを指摘する洞察力を発揮したとすれば、ゲーテとか哲人や文士の洞察は流石だなぁ、と感心する。
個人的には、純文学とかだと、逆に起承転結が為してないと思うものも少なくない
表現の冗長さにとらわれて、物事の細部にしか興味がなく、一般エンタメ作品のような構成を見ようとしない、結果として作品として何が言いたいんだこいつは?みたいなものになるのは独り善がりだと思う
ためらうことが知性なら、統合失調症の人は知性の塊だよ
でもそこに美学や美しさなんてないし、当たり前の物事を煩雑に考えることが知性や哲学とは思わないな
むしろ、ある種の簡潔さにこそ、知性や哲学を感じる
やはり筋トレは文学ンゴね
文学と筋肉トレーニングを入れ換えて読んだけど違和感ないンゴ
なろうは文学じゃないので問題無いな。
それはそれとして「冗長」は「ぜい肉」じゃない。
プログラムのデバッグで使う「冗長」モードだっていたずらにダラダラ表示してるわけじゃない。
デバッグという目的のために、必要十分と思われる情報に絞ってなければ、読みづらいだけのダンプでしかない。
小説でも単にダラダラと間延びさせるわけじゃない。
書き手にとって、ただのフローチャートに効果を与える、手段の一つになる。
だからこそ「肝は冗長」なんじゃないかなと思ってみる。
ちょっと臭すぎるな
「冗長」って表現は違うんじゃないか? 前置きから対義語を「性急」としているのは伝わるが、意図的に情報を膨らませる事を無駄に長いというのも不適当に思う。詳細に語る事や熟慮する知性を「迷い」「ためらい」と呼ぶのもピンと来ない。
どちらも「慎重」とか「緻密」などと言い換えれば前置きと主題とが知性の在り方として一貫したはず。そしてこのツイ主の文章や語彙からそういう知性は感じられない。
まああえて「冗長」とか悪口のような単語を用いてキャッチーにする工夫も一種の文学だが、ゲーテがどうのという気取りにしてもこの文章にあるのはそういうキャッチーさだけで、やはりここで趣旨とされているような知性とはいくらか異なる。
文学がやりたいのであれば、冗長でもなんでも好きにやればいいし、冗長は文学の肝っていうのもいい意味でも悪い意味でも頷ける部分はあるけど、大半の人は文学をやりたいわけでもないのに、試行錯誤の過程で文学寄りになって、悪いところまで文学に寄っていくのはどうかと思う