それでも写経をしたほうがいい理由
こんにちは、管理人です。
久々の意見記事、今回は「写経」についてです。
本来は「仏教において経典を書写すること」ですが、創作界隈では「プロの小説を書写すること」が写経と呼ばれています。
写経は無駄?
まず、過去記事で出た意見をまとめてみましょう。
●読めば十分、写経までしなくていい
●非効率過ぎる
●寿司職人の見て覚えろレベルで意味ない
というのが否定派の主張です。
一方、肯定派の主張をコピペさせていただくとこんな感じです。
●手を動かし一字一字写してゆくことで、読むよりももっとしっかりと、一文にどのくらいの文字数を使うのか、比喩の入れ方は、視点の移し方はなどの文章作成技術が体感的に理解できる
●ただ読んでるだけじゃ気づかないテクニックを見つけるには有効
●芥川は古典の模写をしたのかもしれないけど出来上がった作品は同時代の中でも最も今に通じる平易な文体だ
無駄に模写していたわけではなく自分ならどう書くかを考えながら模写したんだろう
どの意見もそれぞれ頷けるところがあるんですが、真っ向からぶつかっているのは読むだけで十分か否かです。
プロの文章から吸収すべきというのは両者とも共通していて、写経することで吸収できるのかそんなことをしても無駄なのかで対立しているわけです。
管理人は写経しないと吸収できないタイプの人がいるという意見です。
それは、集中力がないとか意識が低いとかそういうのではなく、「模倣が不得手な人」です。
模倣には得手不得手がある
人間には「模倣する力」というステータスが存在し、人によって得意だったり不得意だったりする――と考えています。
わかりやすいのは「歌」です。
ちょっと思い出してみてください。
身の回りに、本格的に歌をやってるわけじゃないのに異様にカラオケが巧いやついませんか?
そして、その巧さはそいつ独自の良さというよりはモノマネ的ではありませんか?
あとは「スポーツ」もわかりやすい例です。
未経験なのになんかいきなりそれっぽい動きができるやついますよね。
あれは運動神経の発揮であると共に、テレビ等で見たプロ選手のモノマネでもあるわけです。
そして、文章にも同じことが言えるのではないかという話です。
そもそも読むだけで書けるようになるなら
極端な話、読書感想文が苦手な子供は存在しないはずです。
少なくとも教科書や絵本は読んでいるはずなのに、読書感想文が苦手な子供が大量にいるということは、「読むだけでは書けるようにならない」ということだと思うのです。
しかし、平気で書ける子もいます。
何故でしょう?
親や先生が書き方を上手く教えたからとか、読み方が能動的だからとか、たくさん読んでいるからという理由も考えられますが、一番は「模倣力が高いから」ではないでしょうか。
文法とか文章の書き方のコツは、技術として体系化することも可能です。
ところが、模倣力の高い子はそんなこと教えられるまでもなく、既存の文章を真似て書くことができます。
Aを読んでaを書き、
Bを読んでbを書き、
Cを読んでcを書く
……ということを繰り返しているうちに、それらが混ざり合い、独自の発想も加わって、やがて本人にしか書けない文体dが形成されていきます。
一方、模倣力の低い子にとっては「Aを読んでaを書く」という作業の時点で困難なのです。
模倣力は、高い人と低い人がいます。
赤ちゃんの頃は生存のために誰もが高い模倣力を発揮していたはずですから、成長と共に衰える人と残せる人がいるのかもしれません。
写経の意味
写経は強制的な模倣体験です。
カラオケのモノマネで言えば「何となくそれっぽく歌おうとする」のでなく「一音一音精密に合わせていく作業」です。
「読書はたくさんしていて、魅力的なストーリーやキャラクターはどんどん思い浮かぶのに、文章が書けない」と苦しんでいる人は、創作の才能がないのではなく、模倣力が低いのかもしれません。
読み続けるだけではなかなか書けるようにならないと思います。
写経、すなわちAを読んでAを書くことで、aを書く道が切り拓かれる可能性があります。
模倣力そのものはおそらく、鍛えようがありません。
そこはもう「ないものはない」と諦めて、軽く写経をやってみたらいいんじゃないでしょうか。
小さなヒビからダムが決壊するみたいに、少量の模倣で一気に書けるようになるかもしれません。
肯定派の方々がおっしゃっていたよりもっと基礎的なレベルで模倣は有効なのでは――という話でした。
けれど、もちろん、
中等〜高等テクニックの習得にも有効
です。
個人的には、漢字の開き具合に敏感になれるのが大きいと思っています。
ディスカッション
コメント一覧
どちらかと言えば写経否定派だったけど納得しました。
「強制的な模倣体験」という着眼点が良いですね。
ありがとうございます。少しだけですが写経やったことあるので、その成果を分析してみました。
行為としては書き写すだけだからすごく初歩における練習に思えるけど、ある程度書いて文体とかに悩んだ人が考えながらやって初めて意味がある練習だと思う
中級以降の修練としても有意義ですよね。今回はむしろ初心者向けではないかという話でした。
自分は肯定派で、実際写経やってました。
とりあえず体験してみろ。それをどう生かすかはお前次第だ。切り捨てるなら、それもお前の選択だ。
そんな学校教育くらいの感覚ですかね。
良いと思います。いかにも「修行」っぽいから避けて通る人が多い印象ですが、とりあえずやってみるのが吉かと。
脳に電気信号が流れる以上、学習として十分に有効な気がする。
読み(インプット)だけだと効果が弱い人がいるのは、どういう仕組み故なんだろう。研究はされてても良さそうだが。
インプットでは解釈が強化されて、構築はどちらかというとアウトプット担当だからかな。
アウトプットで解釈も強化されるのは、構築におけるロジックについて思いを馳せるからかな。
> 読み(インプット)だけだと効果が弱い人がいるのは、どういう仕組み故なんだろう。
興味深いですね。AIの研究なんかだと学習能力はMAXが前提でしょうから、意外と手薄な分野なのかもしれません。
マンガが描けないから、
アニメも映画も作れないから仕方なく小説を書く。
こういう動機の人が5割とか8割くらいは居そう。
昔と違って素人が小説以外の表現手法に
手を出しやすくなってるから、
そっちの分野で「写経」するのも手かと。
逆に言うと、そういうことが出来ない、
思いつかない人が小説に吹き溜まっていて、
表面上作家志望が増えたようにみえる、
とも言えるかもしれない。
作り手のエンコーダと鑑賞者のデコーダの
一致度が高くないと伝わらない小説は、
映像表現の原作としての立ち位置へ
どんどん移行してる感じ。
> 映像表現の原作としての立ち位置
最近の流れを見る限り、おっしゃる通りですね。たぶん昔からそういう動機で始める人は多かった(別に悪いことではない)と思いますが、最近は業界側がただの素材と見る向きが強くなってきた気がします。
創作をやるにあたって限界を感じ始めたら選択肢の一つに入るでしょうね。
それでもめんどくささを感じるならパロディをやるのも一つの手だと思います。ある意味写経に近いし、やる気もそっちの方が出やすいのではないでしょうか。
パロディは良い手ですね。枠組みが決まっているからやりやすいし、ただの写経より楽しそうです。
これは良き記事かな。
ありがとうございます。書いた甲斐がありました。
僕も写経してみたくなりました。
ええと、平易で簡潔明瞭な文章って誰がいたかな。
百田尚樹とか?
百田さんの作品は未読につき何とも申し上げられませんm(_ _)m 平易で簡潔明瞭というと、手持ちの中では浅田次郎さんあたりでしょうか……
御助言ありがとうございます
僕は浅田次郎が未読でして
とりあえず「天国までの百マイル」ポチりました
浅田次郎の小説において素晴らしいのは、どの作品も人情味にあふれているところで、自分が中高生時代によく読んでいたくらいなので「平易で簡潔明瞭な」という意味ではピッタリだと思います。しかし決して内容は軽くないですし、どの世代の方が読んでも心に残るものがあると思いますので自分もおすすめです。
自分が思いつくのはよく同じ「あ」行の棚に並んでいた赤川次郎の作品です。こちらはもっとエンタメ寄りで作品のジャンルもミステリーやSFなど多岐にわたりますが、本格さはほとんどなく堅苦しさを感じずにするすると読むことができ、とても楽しかったように記憶しています。