「努力しないでチート能力で無敵無双で~」という話を書いている人が
「努力しないでチート能力で無敵無双で~」という話を書いている人が、まず本を書くという凄い努力をしている事実。
— 浅井ラボ@されど罪人は竜と踊る(小学館刊)等 (@AsaiLabot2) June 2, 2021
みんなの反応
ものすごくわかります。
物語を一本書き上げるのは本当にスゴイ。— オブジェクト@図書館はいいぞ (@oixi_soredeiino) June 2, 2021
創作してるオタクは、途中絶対これ自分が書かなくてもいいじゃ???って気持ちが湧いてきてつらくなると思うんだけど、
かそれを乗り越え書き続けてる時点ですげぇんだよね https://t.co/L4Tnz0AAHU— まるお¨̮ ¨̮ ¨̮ (@w_bzx) June 2, 2021
本当に面白話を書こうとするとかなりの努力が必要だろうし、完結させるにも努力が必要だと思うけど、書きたいものをだらだら書くだけならいらないかな……
— Mr.ムッシュ (@Mr_mussyu00) June 2, 2021
人格や知性を変えると別人になってしまうので能力が付与されますが、その能力を扱えるような連続する人格と知性こそが一番の能力、ということに。
— 浅井ラボ@されど罪人は竜と踊る(小学館刊)等 (@AsaiLabot2) June 2, 2021
情弱が手に取りやすいタイトルを求めた結果そうなっただけで、本人は情弱釣るための努力してる。
どちらかという美談というより気味の悪い話。 https://t.co/aO4qGcLOFn— 宇宙のねこひら (@moryoman) June 2, 2021
「本一冊」の分量となると生半可では達成できませんね。
ディスカッション
コメント一覧
なろうでもこういう擁護をちょくちょく見るけど、肝心の内容への擁護が無い時点でお察しな気がするんだけど。
まぁ仮に内容への擁護があっても、主人公上げを優先しすぎて矛盾してあっさり反論されたりするけど。
作品と作者は分けるべきだと思うんだ
作者の努力は読者には見えないし結局のところ面白くないから批判されるんだし
擁護とかじゃなくて本一冊分以上の文章を書ける時点で
米欄で議論したり批判してるだけの我々とは隔絶した努力を行ってると称賛してるんやで
それが努力なら、レジ打ちのバイトがマニュアル覚えるのも努力だな
努力やんw
おそらく「努力しない主人公を書くような作者は努力したことのないカスだ」とかピュアなことを言う奴の批判に対する反論ありきの文脈で出た擁護なんだろうけど、部分的に肯定することはダメなことか?
例えば君が「内容はゴミだ」って思ってて、仮にそこは相手も共通してるならそれ自体はそれでいいことだよね。対立してないんだから。
「作者はちゃんと努力をしてるよね」
→「でも内容はどうなの? そこに触れないとかお察し」
この反応って、作者が努力しているかどうかの論点でしかなかったのを、むしろ君が話をすり替えてまで部分的な肯定すら避けているだけじゃないか?
君の中では擁護と反対で二極化した戦争でもしてるの?
この前いつの間にか百万字越えてたわ
日常ラブコメ専門で我ながら遠くに来たもんやで……
はえー、すっごい。
普通の日常っぽいシーン書くのむずいから、そんなに日常シーン書けるの尊敬する。
エンジョイ勢やから自分の好きなように書いてるだけやけどありがとー
ヒロインにご奉仕とかヒロインにご奉仕とかヒロインにご奉仕とか……!
当該ツイート見に行ったけど特に何の文脈も読み取れなかったから、この感想が妥当かどうかはわからない。
され竜の作者さんがそうだというわけではないけど、ほならね理論を創作する側が持ち出すのはあんまよくないと思うんだ。基本的に創作行為そのものの尊さと、内容とそれについての評価、受容のされかた、作者の人間性、すべて別の話だし。もちろん関係性はあるにせよ。
創作する側がほならね理論を外に持ち出してしまうと、その時点で創作行為そのものが様々な比較の対象になり、結果としてその尊さを貶めることになりはしないだろうか。例えば、ガソリンまき散らした彼のそれはどうだったんだみたいな突っ込みが入るようになる。
しょうもないなろう批判とか日常茶飯事なんだし、だいたいにおいて作家側はスルーかブロックでいいと思うんだけどな。非生産的なやりとりしてもしかたないし……
これをほならね理論扱いするのは被害妄想が過ぎる、非生産的な思考してんのは君だよ
>当該ツイート見に行ったけど特に何の文脈も読み取れなかったから
つまり意図を推察したってことだろうけど、結論が「作者は努力している」なんだから、仮に批判対象がいるとするなら「作者は努力していないという人」だよね
あのね、「ほならね理論」ってのは作品・商品の評価に対する反論として不当ってだけなの
素人の客に売るために作ってるモノの評価について、その素人の評価を素人であることをもって否定するのは矛盾してる。だから「お前がやってみろ」ってのはおかしい。
でもここで想定される批判対象って、作品内容への評価でなく「ジャンルやタイトルから作者の人格まで決めつけている人」のことだよね? つまり単なる色眼鏡による人格否定
会話として捉えるなら、
「こんな話書くとか、作者はきっと何の努力もしてきてない根性ナシなんだろうなあ」
「いや、一冊本書き上げるだけでも結構しんどいよ? 努力したことない奴にできることじゃないと思う(※経験談)」
これそもそも「お前がやってみろ」ってニュアンスにすらなってないよね? 作者が努力してるかどうかの話しかしてない。作者本人が言うにしても「僕は努力してます」って話にしかならない。
それだけなのに、これをほならね理論だとか不当な反論だとか感じるのは、むしろ君が読者なら何を言ってもいいとか勘違いしてるからじゃないか?
まず、ステーキ食いたいさん(長いから以後ステ食いさんに省略します、ごめん)の、
コメントの主旨については特に反論はないです。ステ食いさんのコメント内にあるそのような理由と対象の範囲内においては、そのような判断には十分妥当性があると思う。
「ほならね理論」については、こちらの頭の中ではそれについて考える意義があったけど、傍からみて飛躍してるように見える可能性についてはこちらの一番最初のコメント冒頭に書いた通り十分承知していたのでむしろ突っ込みがあって助かった。補足や修正いれようか迷ってたので。ありがとう。
「ほならね理論」の定義と解釈についてはステ食いさんのそれと自分のそれとはやや異なるようだけど脱線するので省略。主眼が「お前がやってみろ」にあるのはたぶん同じ。
また、想定された文脈(当該ツイートの背景と推察された意図)については、その場に限った範囲においてはおおむねステ食いさんと同じなので、細部の解釈違いについてもこれまた省略。
あと自分のコメントは創作側からのものです。小説ではないけど日々趣味として創作行為を楽しんでる側なので。つまり、
> 不当な反論
だとも感じていないし、
> 読者なら何を言ってもいい
とも思ってないけど、その理由についてはこれも長くなるので省略。
基本的には
> され竜の作者さんがそうだというわけではないけど、
と書いた通り自分のコメントの対象は、当該ツイートそのものではなくそれを含んだもっと広い領域、創作する側が創作行為に伴う努力について非創作側に説くこと全般、についての雑感なので。
だから、それが非生産的な思考や被害妄想だとステ食いさんが断ずることについて、こちらは特に反論したいとは思わないかな。こちらの思考の経過と結論について書けば長くなりすぎるし、ステ食いさんもそれについてはどうでもいいんじゃないかなと思う。
あえて言えば表現物、この場合は発言、文章における言語行為論的な(パフォーマティ ブな)側面とその多様性、および解体可能性についての思慮が観測できない創作側の発言なり表現は、つまり発言の実際的な影響とそれが受容される広範の文脈について想定しないのは、いささかナイーブとかいうか純粋すぎるのでは、という感想です。特にされ竜の作者さんは日常的にツイッターで論評とか某出版社への批判とかいろいろされてる方なので。
以上、自分とステ食いさんの意見の違いは、その対象や領域、視野の広さがまったく違うからというのがこちらの解釈です。
また、もしステ食いさんの方から何か他にこちらに求めることがあれば、それを明確にしていただければ、こちらも可能な範囲で答える努力をします。それこそ生産的なやりとりのために。
とりあえず、そちらの本旨を把握しないまま非難的になってしまったのはすまない
ただ、説明下手なのに急にアカデミックぶろうとしすぎかな…
要するに
>創作する側が創作行為に伴う努力について非創作側に説くこと全般
に向けて言いたい話だったから、「ほならね理論」かどうかはその定義とか以前にそもそも重要じゃなかった。ってだけね? 把握した。
ちなみに、君のその括りは「ほならね理論」とも結果的に部分一致するというだけで、類語でも包含関係ではなさそうだから視野とか視点の段階とかじゃなくて普通に単なる表現のミスだと思う。
そして肝心の本旨の方がまるで要領を得ないのは尚更だが、大まかに言えば
「創作活動は非創作側にとって想像し難い別世界のものであるべき」
みたいなのが君の持論だとは(考察を頑張った結果)推察した。おそらく、結局は「努力」ってキーワードも重要ではなく、要するに「創作の現実的・凡人的な裏側を見せようとするな」ってことかと。
創作する側が創作行為の実態とかを外に見せてしまうと、外部からも比較や推察が可能な行為にもなり、結果としてその漠然とした尊さを維持できなくなって、好き勝手文句を言える人間を助長してしまう。
みたいなのが根拠。
そういう趣旨だとして、個人的に反論するなら、このTwitterの仮想批判対象でもある「知らないから好き勝手文句を言える人間」も実際にいるので根拠に優位性がない。
「知った結果文句を言う人間の発生」というデメリットとその逆のタイプとでトレードオフなだけだし、むしろ個人的には「知らないから好き勝手文句言える人間」の方が多い印象。それにそもそも今時そういう神格化は成立しない。昔の小説家がスター扱いされがちだったのは他にメディア・エンタメがなかったからなだけ。
積極的に自分から「創作は大変なんだ」みたいなアピールをする行為に限って言えばどの仕事も等しく大変だから嫌いだが、よく外部から批判されることに対して業界人が弁明するなんてことは普通のことなので特に非難すべき要素があるとは思えない。
追記
ちなみに……の段落について修正
×>類語でも包含関係ではないから
◯>類語でも包含関係でもないから
おけおけ。返信ありがとう。
こちらの説明不足とか語彙選択の不適切さとかいろいろあったのに、こちらの駄文、長文を読んでもらえてうれしいんが、そちらには面倒かけてすまない。
自分はステ食いさんほどスラスラ考えてることを文章に出来ないので、少し時間をとらせてほしい。きちんと返信を読み込みたいのもあるし。そしてやりとり続けるかどうかもそちらの自由にしてほしい。こういう場だし、まあ単純に大変だと思うので……
あとまた長くなりそうだからこのツリーではなく、一番下にコメントしていく。
以上、よろしくです。
作家だって「気が付いたら右手に悪魔が取りついて寝ている間に勝手に小説を作ってくれました」みたいな妄想をしたことは一度はあると思う。
街ってゲームではそんな作家が主人公。本人は高尚な文学を書きたいのに寝ている間に低俗で煽情的な俗悪小説が出来上がって、それが大ヒットしてしまうからちやほやされるようになる。
それを恥じて自分の力で執筆しようとするんだけど、最終的には腕を・・
結局は自分でやって自分の力で勝つのが一番気持ちいい
なんかAPEX(に限らないけど)のチーターが思い浮かんだ
人の努力や尊厳を踏みにじってんだからやっぱチートはよくないよな
みんなでチーター討伐するのは気持ちいい
だから作中で努力しているように見えるかどうかだけを論ってそれがなろうジャンルの一番駄目なところだなんて言ってる奴なんて所詮アンチとして一番目立ってるだけの浅いノイジィマイノリティにすぎないのに
さもなろう批判はそういった程度の低い連中しかいないかのように印象操作と論点すり替えを行って擁護側が反論しやすい部分だけ恣意的に取捨選択して自説自論に都合よく歪めて悦に入ってんなって話
そもそもなろうに限らず娯楽コンテンツにおける努力なんて極論言えば所詮作劇上における都合に基づく予定調和でしかないんだから
同じ予定調和同士でも不快に思う人間が多いんならそれにはやっぱりなんらかの要員があるってことから目を背けんなよ
主人公は努力全否定のクソ野郎ですが作者様は努力しててご立派ですね!ってなるのかよ
なるぞ
なろうのランキングを埋め尽くすクソテンプレ作品は嫌いだし消えて欲しいと思ってるけど
少なくともネット上において作品を書いて掲載するってのは批判の数万倍は生産的な行為だからな
コンテンツを消費するだけのオタクでも他人の努力すら認められないような滑稽な人間にだけはなりたくないわ
ホンモノの厨二病に厨二病躍らせる作品が作れるかよ
10万字の駄文は毎日3千字なら3か月で終わる。
校正も読み直しも碌にしない毎日投稿民だと割と1冊分書くのに労力かかってないな。
ちなみに2020年12月31日までに連載開始されたすべての作品の中で10万字以上のものは
61,750/410,828≒15.03%
というわけでおよそ6~7人に1人、個人的にはそこそこ少数派だと思う。
小説家になろうって1人1作品しか投稿できないの?
もちろん複数作品投稿できるけど、それを加味しても6~7人の範囲に収まるでしょ。
それに複数投稿する人って10万字以上は普通に書くだろうから、むしろ割合は減る方に動くだろう。
新着順の、50ページ目から99ページ目の一番最初に表示される作品の作者さん(大量投稿者様は確認難しいので下の作者を確認)について、10万字を超える作品があるかどうかを調べてみたら、13/50、4人に1人くらいの割合で10万字を超える作者さんでした。
(統計学的には母集団少ないかも……)
なんでこのズレが生じるかと言うと、詩をたくさん(200とか)挙げてる人が結構います。
それで作品ベースの比較と今回の標本抽出で差が出てるみたいです。
まあ、千字行かないくらいでやめちゃってる人もそこそこいましたが。
意外と色んな作品があって、眺めるのは結構楽しかったです。
作家って職業の基準なら、ある程度の文章量書けて、ある程度のところで話を区切れるのがスタートラインなんだが……
もちろん複数作品投稿できるけど、それを加味しても6~7人の範囲に収まるでしょ。
それに複数投稿する人って10万字以上は普通に書くだろうから、むしろ割合は減る方に動くだろう。
ミスりました。
実は血がにじむ努力をしているけど
勇者とか救世主とかの肩書の為に
潰れたマメを手袋で隠し涼しい余裕の笑みをふりまかないといけないとか
ハーレム来たと思っていたけどドロドロ政治に巻き込まれて
歴史の勉強や諜報活動をしなくちゃいけないとか
そういうの挟んでほしい
こういう本をクソみたいな本とくさす奴が
一人残らず全員
クソ以下の本すら書いたことがないという事実
実際すごい努力してると思うけど自分で言われると地獄のミサワみたいで滅茶苦茶寒い。
流れ的に他の人が変なのに絡まれたのを慰める為に言ったのだろうけど。
クソ長コメント投稿します。すいません。
2021年6月5日 2:24 PM ステーキ食いたいさん への返し
まず最初にこちらが説明下手なのはたしかにそう。なので、また意味不明なとこがあれば突っ込んでくれると助かる。お手数かけて申し訳ないけど。
というか、自分の端折りまくったあのコメントでよくそこまで読み取れたね。むしろそこが驚きなんだが……
以下、こちらの主張を述べつつ都度そちらの返信に応答していきたいと思う。またあらかじめ書いておくと個人的な願望がかなり入ってるし、ステ食いさんの返信でそれがより明確になり再認識できたのは自分にとってはよかったと感じてる。ありがとう。
1.言説には書かれたこととは別に、背後にある発話者の意図、その基となる価値判断および基準、それが生じた状況(個別、もしくは文化、社会的な背景)、受け手の理解/無理解、受け手の再解釈と再生産、これらが必ずある。
したがって発言に影響力のあるもの、また言説がこれらに与える影響について想定する能力がある者は、言説を生み出す行為においてこうした様々な点に十分留意すべき
2.「創作行為には遍く尊さがある」という価値観は、その尊さの本質の既定の難しさから生じた概念や理念に近いものなので、それが現実的な尺度によって比較、相対され、結果として形骸化するような言説は、特に創作側からは積極的に流布されるべきでない
まず1.について
ステ食いさんの
> ちなみに、君のその括りは ~ 普通に単なる表現のミスだと思う。
これは9割9分正しい。その上で自分が何を気にしていたか。なぜ「ほならね理論」と「創作行為には努力が伴う」を同じように扱ったのか。蒸し返して悪いけど、こちらの主張の主旨とそれなりに関係があるので。
「ほならね理論」についてはその発生の経緯はともかく、広義のそれは今や創作物だけでなくありとあらゆる批判の返答にすごく雑に使われるようになったと感じてる。「無産は黙ってろ」っていうのもその類型であり典型。それがまず自分の認識の前提にある。ステ食いさんの言う通り「ほならね理論」自体はだいたいにおいて不当な反論であるにもかかわらず、なぜそれが批判の返しとして一定の効果を持つのか。
それは一般大衆に共有されている「結果を残した奴がえらい(あくまで大衆の理解や観測可能な範囲において)」という価値観が根強くあるから。
同様に「~をしてる人が~という努力をしている事実について」がいろんな批判に対する返しとして有効なのは「(あくまで大衆に理解可能な)努力をしてる奴はしてない奴に比べてえらい」という、これまた大衆に共有されているであろう価値観があるから。両者とも何に強く訴える効果を持つのか、という点において類似性がある。
さらに詳しく説明すると当該ツイートの、
発話側
状況→価値判断と基準→意図→言説
受け手側
言説→状況→価値判断と基準による理解/無理解→再解釈と再生産
この一連の過程において自分が考えたのは「状況」と「価値判断と基準」についてで、創作についての何らかの批判の返しとして、
・ほならね ~ 。(だからAだ。←表出しないAという肯定的な価値判断)
・創作行為には努力が伴う。(だからAだ。←表出しないAという肯定的な価値判断)
※言説と価値判断がセットなのは説明済み。ただし純粋な論理や数学等は除く。
こうした両者の価値判断とそれが発生する状況について、特定の言説に共通する性質と周辺構造があり、それが一定の普遍性をもつのでは、と考えた。言説の効果だけでなくね。
したがってステ食いさんの
> 「ほならね理論」とも結果的に部分一致するというだけで、類語でも包含関係でもなさそう
> 結局は「努力」ってキーワードも重要ではなく
という指摘、これはまったく正しい。
しかしだな。これは自分の語彙力のなさが悪いんだが、上記のような「状況」「価値判断と基準」と同様の性質と周辺構造が発生しうる言説や表現として、「ほならね理論」と同じくらいなじみがあってより適切なものがあれば教えてほしい。そういった意味ではステ食いさんの、
> ちなみに、君のその括りは ~ 普通に単なる表現のミスだと思う。
という意見をこちらが全肯定するのにはやや抵抗感があるかな。正直に言うと。大筋においては認めるけどね。たしかに飛躍がある。
ちなみに当該ツイートにはたしかに「ほならね理論」と同様の意図はなく、想定される批判に対しても妥当だったかもしれない。しかしその受容のされかた、つまり「状況」による影響と「価値判断と基準」は受け手によってかわるし、再生産(受け手が再解釈して別の場で用いること)時に、当初の文脈が引き継がれるとは当然限らない。それがこちらの
> 発言、文章における言語行為論的な(パフォーマティブな)側面とその多様性、および解体可能性
についての話に繋がる。つまり文脈も何もなく雑に使われるようになる可能性があるのでは、っていうこちらの憂慮についての話。
こうした諸々を踏まえた上で「創作行為には努力が伴う」は
・「そうは言ってもこっちは結果を残すために努力してるから」に置き換え可能
・「ほならね理論」の類型言説として機能しうるポテンシャルをもつ
・場合によっては「ほならね理論」と同じくらい雑に使えるし、その効果は十分に強力になりうる
したがって、創作側がこうした言説を生み出す際にはその影響について十分留意すべき、と考えた。
以上1.についてです。説明がへたくそでほんとすまん。これについてはこのコメ欄全体を見ると、なんとなくその空気が感じとれると思う。いずれにせよめちゃくちゃ乱暴に言えば「頭のいい人には頭のいい言動(振る舞い)をしてほしい」、これにつきる。
2.について
>「創作活動は非創作側にとって想像し難い別世界のものであるべき」
これについては違うと言いたい。神格化もそう。むしろ非創作側の理解を得るために、創作側はその手段について熟慮が必要で、軽率に安易な言説をもちいるべきでない、という立場。
ここでは創作行為の尊さを説明するための類型として「人命には遍く尊さがある」をもちいたい。
「人命には遍く尊さがある」を概念化、理念化したもののひとつに人権概念がある。それができた経緯について、ここでは仮に「それがないと人は容易に迫害、差別、虐殺をおこすから」とする。これは人類史における知恵だと個人的には思ってる。また、これに似た性質をもつ概念に「表現の自由」「思想の自由」もある。あとは最近の記事で道徳とは何かについてコメ欄で盛り上がってたけどそれとも関連する。
で、「創作行為には遍く尊さがある」もこれらと同じで、その内実の理解と実効性の担保のためには文化や歴史的背景についての丁寧な説明やその意義の共有、普及がまず必要で、それらは決して一言では言い表せないはずなんだ。
なんて言えばいいのかな。小説を書く、絵を描く、音楽を奏でる、映画を撮影する、いずれも動物はやらない。何かをインプットして、それらを咀嚼し組み替えてアウトプットする、そうした生存に直接結びつかない表現行為は人間しかしない。だからそれは人間らしさの重要な要素のひとつだと明言できる、と自分は思ってる。しかし所詮これも理由の一つにしか過ぎないし、創作行為に限らず「あるものの尊さ」というのは、その本質の既定の困難さが常に存在してる。これは考古学とか歴史研究とかなんでもいいんだが。
話を戻すと本来創作行為の尊さというのは、経験してみるかその成果物を享受するかしないとわからないと思う。しかし、だからと言って世間様に対して、
「努力してるから(だからすごい)」
「あなたには出来ないことをしてるから(だからすごい)」
こういう訴え方をするのってすごい単純化だし、ひどい矮小化なのよ。
創作行為における「努力してるから(だからすごい)」については
・どのような努力でもすごいと言えるのか、結果が出なくても?
・努力とは何なのか、定義は
・犯罪者がした努力も認められるのか(←そも反論になってないが大衆的な価値観への訴求力はある)
といったようにすぐ比較、相対される。
「ほならね理論」についても
・じゃあ他にできる人が出てきたらそれはすごくないんだな
・そもそも批判する側のできるできないはおまえの作品の内容の良し悪しに関係ない
・それが出来たのはおまえの環境のおかげだからおまえはすごくない
みたいな返しがバンバンでてくる。
これが単純化して何かの尊さを説くことの弊害なんだ。だから広義の「ほならね理論」的な言説は便利だけどある意味最悪で、その乱用は創作側もそれを受容する側も同時に貶めることに繋がりかねないと自分は感じてる。だからステ食いさんの
> 積極的に自分から「創作は大変なんだ」 ~ どの仕事も等しく大変だから嫌いだ
についてはマジで同意しかない。
これとはまた別の観点から考えてみる。
自分はガソリンまいた某彼の創作行為も他のそれと等しく尊かったと思ってる。それは最初のコメントで書いた通り、
> 創作行為そのものの尊さと、内容とそれについての評価、受容のされかた、作者の人間性、すべて別の話
このように考えてるから。でも世間様はやっぱりそうは思ってくれない。
例えば「殺人によって死刑が決まった囚人にも人権があるか」という問いについて、人権と咎や罪に対する償いは別なのでその死刑囚にも人権がある、と自分なら答えるだろう。でもそう答える人ってやっぱり少数派なのよ、現実には。
つまり現状としては、
人権も、表現/思想の自由も、道徳も、創作行為も、どれも等しくその尊さが形骸化しつつある、というのが自分の認識。
単純化、矮小化された説明と受け手の理解 → アホみたいな返しがばんばんでてくる → 形骸化する
これ、現象としては全部同じなんだ。だからステ食いさんの
> 結果としてその漠然とした尊さを維持できなくなって
これについては現状としてもうすでにそうなってる、というのがこちらの認識。
しかしね。だからこそ、それに拍車をかけるようなことを創作側がするのは慎むべきなんじゃないか、というのがこちらの主張の主旨。弁明や反論をするな、ではなくその在り方が適切かどうか今後のためにもよく検討しようぜ、という提案。そして、創作側も非創作側にもその尊さを理解してもらうには、どんな選択肢がありうるかを考えたり議論できるのが生産的なやりとりなのでは、というのがこちらの主張の意図と結論。
※ただし、形骸化全般について単純化矮小化した説明とその理解が主原因であるとまでは主張するつもりはないので、そこは一応書いておきたい。ここまで書いておいてなんだが、むしろそれは副次的な要素のような気もしてる。
以上2.について。
最後に創作行為の尊さを理解してもらうための現実的な解としてどのようなものが想定されるか、について書く。
まず今までの自分の主張はかなり理想論に傾いてたので、現実的にはしょうもない批判を繰り返すしかも声のでかいアホには短期的局所的に「ほならね理論」的な手段を用いて封殺するのもしかたなしだと思う。あくまで乱用は避けようというのがこちらの主張なので。ツイッターにしろ種々の掲示板にしろ基本はブロ&ミュート&スルーかなと。
その上で中長期的には、
1. 作品の良さを単純化矮小化することなく伝えることのできるレビュアー(批評家)を増やす
2. 1の環境を整える→最近web小説全般のレビューサイトを作ってる方がいるらしく期待大!
3. 単純なわかりやすさの中に複雑で普遍的なテーマを忍ばせるような作品を創作側がつくる
4. 3のような傾向をもつ作品を個々人やメディアが評価していく
5. 創作行為の尊さというのが実は身近なものだと知ってもらえるような創作関係の講座などの充実
6. まともな批判に対してはそれは改善の可能性なので創作側も向き合うべき
7. 6については当人達が難しい場合、周囲のまともに議論できる人がするのもぜんぜんあり
8. 7を可能とする場の充実。ここの読み速みたいな
パッと思いつくのはこれくらい。
あとこれは個人的な印象なんだけど、創作側というのはその楽しさをできることなら誰かと共有したいと思ってる人のほうが多いんじゃないかな。物書きも絵描きも作業中はたぶん孤独だから。これは神格化についての応答です。
こちらの記述は以上です。もうあまりにも長すぎるし、読んでもらえるとはまったく思わないけど自身の考えを整理しまとめるいい機会になりました。謝謝。
なろう系書いてる人たちが小説書くのにも努力してるっていわれたら、まぁそうなんだろうけど、一方でそういう人たちは現実生活においてもきちんと努力が出来てる人たちなんだろうか?って思うよ
例えば、ゲーム廃人なんかがそうだけど、ゲームの世界でしか努力が出来ないからゲームばかりやってて、現在世界に向き合おうとしない、何もしようとしないって感じになってると、ゲームのなかでいくら頑張ろうと、それを努力してるって言うんだろうか、それって単なる現実逃避の一形態でしかないよねって感じるのと同じように感じる
これがなろう系とかじゃなく、王道の物語とか一般小説をきちんと書いてるような人たちなら印象も違ってくるんだけど、なろう系だと正直…って思う