日本の国語教育っていい文章を書くスキルにあまりつながらないよね
パーツをどう組み立てるかは教えてくれない
パーツの分類だけ覚えて文章が上手くなるわけがないだろう
独自に文章を品詞に分解して研究しなきゃならない
読みやすい名文
>>4
平易な言葉で出来た文章のことか?
それとも音が取れてる文章のことか?
それとも、その両方か?
もし上記以外にもあるなら、どんな文章か、もう少し具体的に言って欲しい
俺がほしいのは両方だな
平易な言葉で簡潔に書いてあり読み手にスッキリ伝わる
リズムもいい文章
テストとかで書き手の気持ちや登場人物の心情を答える問題があるけど、あれは簡潔に述べる技術が磨かれて良いと思うね
そもそも長文の中から必要な文章を見つける作業があるわけだし、その時点で脳内では長文を簡略化するということが出来てると思うんだ
長文の中から必要な文章を探すっていうのは誤読をしやすい
それは文章を文章として読んでない
視力検査がしたいなら眼科にでも行ってやがれ
つまり文章を筆者の論理で読解できれば答えが一位に定まるはずなのに筆者の論理を読まず“キーセンテンス探し”
こんなのまともな文章の読み方じゃない
当然試験でも役に立たない
なぜなら読んでないから答えが定まる訳がないから
正解したら偶々
読んでないから答えが定まらないから
っていうのはおかしいな
読んでなければ答えが定まらないから
>>10
昔の人の「難しい言葉を音も良く並べる文章」は、確かに「言葉を知らない人には読みにくい」もんな
なんとなく分かるわ。俺も言葉を知らないから。
個人的に「先日は助けて頂き、ありがとうございました」より、「先日は助けて下さり、ありがとうございました」の方が好きだわ
どちらの場合も「いただく」「くださる」を漢字にすると意味が変わる
マ?
現代にっぽん語、難しすぎるだろ…
>>6
その場合、助けてという言葉が敬語に適してないと思うんだよな
助けて下さりだと通りがいいのは、助けても下さりもちょっと弛めの敬語表現だからだと思う
頂きを使うならお力添え頂き、にすると通りがよろしい
>>9
>下(くだ)さる
Googleはセーフって言ってるぞ?
>(補助動詞)「お」を伴った動詞の連用形、「ご(御)」を伴った漢語、また、動詞の連用形に接続助詞「て」を添えたものなどに付いて、その動作の主が恩恵を与える意を、恩恵を受ける者の立場から敬意を込めて表す。「お話し―・る」「ご理解―・る」「助けて―・る」
>>24
>助けて下さるが悪いという訳では無いぜ
「助けて下さる」は正しい尊敬表現だぞ
はっきり言うと、少しも悪くない表現だ
あえて悪い箇所を挙げるとするならば、「助けて下さる」を悪い表現だと受け取る奴の「頭」くらいだ(すかした顔でマウントを取る)
まあ正しいんだけど、敬語ってより敬意を払う表現がいくつもあるから使い方を誤るとダメな時もあるっていうのが正しいな!それ以外は俺が間違えてたからなんも言えない!
>>55
>使い方を誤るとダメな時もある
それは敬語以前にも言えることでは?と思ったが、まあいっか
読んだけど5ちゃんに書くときはパーツを置く順番とか全然考えない
技術と技能は別だから技能として定着させるには練習して慣れるしかない
体系化たすかる
知識の内容より技法が優れてる
>>22
>意外とひろゆきのしゃべりとか参考になる
>知識の内容より技法が優れてる
レスバに負けない方法でも学んでるのか?
あんなの「言い切らない」から、負けないだけだぞ
その証拠に、ひろゆきが何かを言い切った時は(ほぼ)100%負けてる
ひろゆきの喋りに騙される奴は「嘘を嘘と見抜けてない」から気を付けろ
名文の書き方は教えられない
>>23
>名文の書き方は教えられない
それはない
「何を美しいと思うか」さえ定義できれば、美しさは言語化できる
>>30
>文章を書くのって結局慣れでしかないでしょ
というか、学んだら使わないと身に付かないからな
小学校で習っても、その後の生活で使わなければ身に付かない
これは何も、「文章を書く」という作業だけに当てはまる物ではない
学んだら慣れろ、って奴だな
反復することで、脳からそれを取り出しやすくなる
これとか普通の漢字テキストに見えるけど簡単な単語から難単語まで載ってるし後ろには同音異字語とか熟語とかが載っててオヌヌメ
語彙力があれば文章読む力が一気に上がると言っても過言でないぐらい強い

ミスった
文章読む力と書く力が一気に上がると言っても過言でない
>>35
>文章読む力と書く力が一気に上がると言っても過言でない
書く力については同意
言葉を知らなければ言い表せないことがあるのはマジだと思う
でも読む力は「う~ん(困り顔)」だわ
>>34
>語彙力があれば文章読む力が一気に上がると言っても過言でないぐらい強い
正しく語彙の意味を把握していれば、あとは応用するだけだから「文章で何かを表現することは易くなる」だろうが、文章を読む力と語彙力の相関関係はあるかと聞かれれば「う~ん、そこまで強くは言い切れないかな」と言わざるを得ない
>>73
ありがとう
>>74
まあ>>34のは本当に読めない人は語彙力つけた方がいいっていう話
そもそも正しい意味で文章を読めないと話にならないからね
>まあ>>34のは本当に読めない人は語彙力つけた方がいいっていう話
>そもそも正しい意味で文章を読めないと話にならないからね
俺には理解できないけどどっかの小説家が言ってた
俳句や短歌がリズムよく聞こえるのは音が奇数で構成されているからなんだそうな
短文を連続で書くなら歌を参考にすると良くなるのかもね
>>44
>短文を連続で書くなら歌を参考にすると良くなるのかもね
それこそ「語彙力を鍛えろ」だろ
奇数の音が名文に関係してるのだとしたら、奇数以下の言葉と助詞を憶えたら、あとは組み合わせるだけじゃん
>>40
>ジャズのリズムにのせて書くと名文が生まれる
なら俺がジャズを生み出していると言っても過言ではないな
そう、俺は生きたジャズだ
その証拠に俺の文章を読んでいると(プァー♪)トランペットの(パパパーツ♪)音が(パーッ♪)頭の中に(パパッパ♪)聞こえてくるだろ?(パプぉ~♪)
読書感想文ってやり方次第ですごく良い課題になると思うんですけどね。
ディスカッション
コメント一覧
「作者の心情を述べよ」なんて日本的国語教育の悪弊そのものじゃん……
こんなカビの生えたクソよりロラン・バルトを学校で教えろ
いいかげん日本人は「テクストを自由に読む」という快楽に目覚めるべきだ
ロラン・バルトさんの「作者の死」について調べてみたけど面白かったです。
作品は読まれた時点で読者側での自由な解釈に委ねられる。
キャッチーな言い方をするなら、
「エヴァ」のマリが庵野監督における何のメタファーかなどを論ずるのではなく、それこそ、「シンは解釈違い。俺の中ではシンジ×アスカだから」と堂々と空想しても良い、という感じなのかな。
何となく「冷たい方程式」の読者がいわゆる「方程式もの」と呼ばれる作品群を作っていった流れにも近いような感じがする?
ある意味で言えば、流行がKANONに代表されるヒロイン不幸ゲーから、全員救う系の二次創作やハーレム系に移行するのもそうなのかな?
この概念の言語化はとってもスッキリ腑に落ちた気がします。1968年にそこらへんのことを考えてたのは、やっぱりすごい人ですねー。
ありがとうございます。
ロラン・バルト、聞いたことはあったけど内容については完全にうろ覚えだったので自分も感謝
議論における論理的整合性や妥当性とは別に、言葉や表現の多義性とそこから派生する解釈の多様性、それが生まれる各々の背景への考慮がもっといろいろなところに広まればいいなと思う
テクストの自由な読解と記述のために必要なのは、唯一無二への安易な希求ではなく、そのためのいくつかの手法を知り、またそれ自体を検証できるような視点やそれを可能とする知識と経験を持とうとする姿勢なのかなと考えた
まあ言うは易く行うは難し……
勉強になりますた
人の間違いを指摘してドヤってる奴は本人が間違ってるのが常だが、ちゃんとわかってる人が知識をひけらかさない謙虚な場合が多いせいで、声のでかいダメな奴の発言が隆盛するのかもな。
誤用が広まって定着する過程。
そもそも日本の近現代における文学研究の基本概念自体が
要はエヴァのメガネが(あえてこう言うが)筆者庵野にとって嫁のメタファーであることを過剰すら通り越して異常に重要視神聖視しすぎる論理体系なんよね
で逆に、作品内における描写や情報それ自体が作劇として作中でどのような働きや意味を持つかという面については、客側は教養としてすら持ち合わせてないのがほとんどで、作り手側すらそれをまともに実践できてる奴どころか意識出来てる奴の方が少ないという無様なレベル
結局近現代文≒私小説という浅薄で卑小な偏向的思想が大手を振って定着化されてしまったせいで、近現代の文学研究国語研究はそういった作品を通して作者の個人的な事情や状況を詮索して符号化することを喜ぶストーカー的欲情を満たすものでしかなくなってんのよ
海外の文学研究演劇研究や、同じ日本でも近世以前の古文における文学研究等と比較すれば、いかに程度が低い惨めなものになってるか歴然だと思うわ
わかりみしかない……
芥川龍之介も「歯車」とか「或阿呆の一生」とかの陰鬱な精神性が描かれた小説はよく話題になるのに
「河童」とか「藪の中」とかみたいな挑戦的で技巧的な小説については教材になるくらいで省みられてないもんね。前者が私小説の近現代文学で後者が明治文学の系譜なのがなんとも……
実写化が嫌われるのも作劇を読み取ることを軽視してきた結果だって思う。
げーのー人の大根演技より、無意味に挿入される恋愛要素とかに観客はうんざりしているんじゃないかな。原作の持つ大きなストーリーのうねりより、瞬間瞬間の画の美しさ、暗示的な符号ばかり重視したせいで細部はキレイだけど全体をみるとなんかちぐはぐになるんだよね。
古文の研究は古文の研究としてもちろんやられてるけど?
大学行ってりゃ普通わかると思うけどそれぞれの専門的研究分野があるよね。論文とか読める人ならわかると思うんだけど、違う分野の研究の話をしてレベルが下がったって論理になってなくない?
こういうこと言うやつほど総じてあんま文章うまくないけどね。小説家や本から文章教わるべきだとか思ってるタイプこそ文章が何かを履き違えてる証拠。
まず言語は口で喋るために作られたものであり、コミュニケーションの手段であり、文章は本来それを記録して伝達する形式として生まれたものでしかない。言語に触れる機会としても普通は会話とか耳で聞く割合の方が多い。
だから多くの人にとって読みやすい文章ってのは必然、耳で聞いたときにもわかりやすくて心地いい文章なんだわ。
喋りの上手い奴が読みやすい文章も書ける。それが大前提。
しかも言語は先に誰かがはっきり決めたんじゃなく、ほとんどが自然に形成されて感覚的に学習されてきたものを後付けで色々定義したり形式化したりしただけだから、読みやすさなんてものの法則を科学的に説明しようとするのは義務教育レベルの話じゃない。経験で平均的な感覚を得るべきもので、国語の授業は朗読させるだけまあマシ。品詞とかの詳細な知識は、法文とか厳密論理で書かれる難しい文章を読解するための基礎力とかだろ。
読みやすさとかに重き置くなら色んな人と会話するのが学習として最高率。
読み手に自分の伝えたい情報を伝えるってことなんだから、いくら本読んでも自分しか基準にできない時点で伝達能力の学習には進歩がない。
おおよそ共感できる。
「しゃべり」としてのウエイトが高いからこそ、「延々と」と「永遠と」と書いたり、「やりづらい」を「やりずらい」と書いたりする間違いが蔓延するわけだし。
ただ、品詞の知識は絶対に必要だと私は思ってる。これ(というか、言語学の知識全般)を知っているかいないかで、外国語の理解度が格段に変わる。
ハルキムラカミじゃないけど、外国語の理解は少なからず日本語の文章力に影響を与えるし、そういう意味では必要な知識だというのが私の意見。
俺も品詞とか知識としての文法理解は絶対的に必要だと思うよ。
あなたの言うとおり他言語の体系理解や法文みたいに厳密論理的な文章を読解するときとかに必要な基礎知識だと思うし、仮に読みやすさを科学するとしても必要な前提知識になる。
会話で理解できる文章力なんかより、そっちの方が義務教育として必要。
言語なんて国によってある程度違うんだから「日本の~」とか意味わからん
どうせ『日本』で一括りにして鬱憤晴らししたいだけだろ