なろうマイスターの称号を持つ俺がなろうのヒットしやすい要素と失敗しやすい要素を3つずつ教えてやるスレ

ヒット要素その1
・可哀想な子どもを出す
奴隷や無碍な扱いされている下働き、イジメ、差別
などなどを受けて絶望しているといい
ただし、世の中や他人を恨まず怯えきっていたり絶望しているに留まる必要がある
これを助ける事で主人公に自己投影している読者は善行をなした錯覚を起こしいい気分になれる
例→デスマーチ 盾の勇者 など
ヒット要素その2
・仲間に主人公を否定させない、もしくは否定した仲間が痛い目に遭う
主人公の行動はヒロイン達には全肯定され、基本的にそのとおり動けばすべて上手く行く展開にする事で
主人公が絶対的に正しく在る結果になり、メイン読者である底辺層の全能感が満たされる
ただ、常にその展開だと飽きられるので
捨ててもいいゲストキャラやサブキャラに主人公を否定させ独断専行→大ピンチ→主人公が救う→土下座or開き直って敵対
のような展開も必要である
ヒット要素その3
・主人公より強さが格上のキャラは残虐非道で完全な悪役にする
旅先で主人公より強い敵キャラは必要になるが
ラスボスだけでは緊張感がないため魔王側近や後に仲間になるキャラにもそういう設定が必要になる場面がある
その時そのキャラの性格が冷静で知的で優しさなどを持っていたら、それは完全に主人公の上位互換になってしまい
読者は主人公がんばえーと応援しにくくなる
完全な敵なら、悪の限りを尽くす暴君に
後に味方になるキャラなら、考え方に甘さが残りすぎて失態を招いたり被害を増やす未熟者として描く必要がある
仲間入りの際は主人公に弟子入りするような形だと完全に格付けは済んだ形なので読者も安心できる
失敗要素その1
・その世界の通貨を日本円換算や、魔法の細かい説明にレベルアップ時の上昇ステータス、武器の細かいステータスなど
不必要な情報がやたら多い
その設定そのものが害悪なわけではなく、そういう設定にこだわり過ぎたり説明過多になる事で読者はウンザリしてしまう
この作者拘りすぎwwwとネタにされて多少知られる程度で終わってしまう可能性が高い
魔法科高校の劣等生がそのパターンだが、あれは稀有なパターンの例外的大ヒットであり
模倣するメリットはどこにもない
むしろ魔法の細かい設定や説明描写はない方が普通に読みやすいのだが
それを越えて楽しめる内容に仕上がっている作者がすごい
・性描写の乱用
主人公が娼館に通ったり、安易なセ〇クスをしたり、ヒロインと深い関係になる事は問題ではないのだが
性描写というのは意外とインパクトが強いので、セ〇クスを描写すると性描写が売りの1つになってしまう
新刊のゲストヒロインが出ると、そのキャラが主人公にどうやって惚れるのか、どうセ〇クスする流れになるのか
どういうパターンのセ〇クスをするのか
読者はそこが気になってしまい
作者は王道ファンタジーを書いてるつもりでも読者はちょっと工ッチなコンテンツと認識してしまう
また工ッチなコンテンツと認識された場合らワンパターンなセ〇クスは人気低迷を招くし
かと言ってバリエーションもたせすぎるとアブノーマルに走り登場人物が気持ち悪いキャラになってしまう
性描写は取り入れるのならガッツリ入れて開き直り
工ッチコンテンツと思われたくないなら一切描写しない事が肝要
朝チュン程度に留めるべし
失敗要素その3
・ざまぁ系なのに序盤でざまぁ達成してしまう
追放→覚醒→ざまぁもう遅い
これはとにかく人気を取りやすいスタイルだが
読者の求めるざまぁをお預け出来ずすぐに提供してしまうと、そこからは人気低迷していく一方である
追放直後に覚醒した主人公が次の冒険ですぐにざまぁしてしまうひどい話もゴロゴロ存在している
ざまぁを上手く使うには、主人公を追放した事で歯車が狂い出し主人公の強さに気づき始めるパーティの過程
成功していく主人公の話題に嫉妬し無茶なクエストに挑み失敗し凋落していく過程
憎しみをつのらせ主人公を陥れようとする過程
主人公と直接対峙する過程
負けを認められず悪巧みする過程
悪行に手を染めていく過程
などなど、主人公にざまぁされてからもざまぁおかわり出来るよう諦めない姿勢をパーティに持たせる必要がある
最終ざまぁ完了まで、いかに読者をハマらせてざまぁなしに楽しませることができるかが大切
ざまぁ系は読者を安易に取り込めるメリットがあるが、ざまぁの取り扱い次第ですぐ離れる読者であるという諸刃の剣なのだ
これからの作者は参考にしていただきたい
コミカライズ経験者だぞ
今書いてるのはアニメ化目指してる
正論スレは伸びない
ディスカッション
コメント一覧
あえて言うけど愚民政策にかなり近いルールなんだよな、これ。もちろん読者の方が思考を停止しながら~を望んでいるから順序は逆だが
それ自体はなろう以前のラノベ業界が少なくとも自身らをラノベって浅いカテゴライズに分類してそれを大義名分に欲情を満たすだけに特化したジャンルに舵切って以降の基本原理だよ
馬鹿を増やその馬鹿にオ★ナ★ホを売るための啓蒙活動がきちんと実を結んだ結果
それは君がそういうラノベしか買ってないだけでしょ
プギーポップやハルヒを読んだら口が裂けてもそんなことは言えないよ
最近でいえば一巻だけで10万部超えた86は欲情を満たすだけのラノベじゃないし
失敗例の方に文体やら語彙やらが入って無くてちょっと安心した
全肯定だとボケもツッコミも入れにくそう(KONAMI)
意外にまともで驚いた って言ったら悪いか
マーケティング調査して相手に合わせて話を書いているって当たり前の話だね。
ゴルゴ作者は売るためにゴルゴ書いてるけど書いてて一番つまらんって言ってるし、売れるものと書きたいものが一致するのは稀有。
市場を分析して文字に起こすとこうなるのね
・・・改めて見ると吐き気を催す市場だなぁオイ
そういう意味では、傾向や経験則としてこうだって表面的な部分自体はなかなか現状に近い形で切り出せてるとも思う
だからこそ構造や本質として何故そうなのか等を掘り下げてなく、それを改めて推察すると
ホントひでえ業界でひでえ界隈でひでえコミュニティでひでえ構成員だなとしか思わんけど
失敗要素その1は昔なら何度も言われてるけどなかなかなくならないよね。ただ設定見せつけられるだけでも辛いのにセンスない奴の説明シーンは拷問に近い。
そもそもジャンルに限らずオタクって人種自体が
自分が興味のある、自分が話したいことを言うことが前提かつそれが出来れば満足なタイプが多いので
相手がそれをどう思うか、相手にどう思って欲しいからどうやって伝えるか、そもそもそれを伝える相手自体にすら興味がないことと直結しがちだからでしょ
・可哀想な子どもを出す
ヘンゼルとグレーテルのような童話、
幼少期に苦労した誇張創作偉人伝、
より一般化すると水戸黄門のような人助けモノ、
美味しんぼ、大衆演劇、貴種流離譚、
こーいうのの類型ですね。
・仲間に主人公を否定させない、もしくは否定した仲間が痛い目に遭う
・主人公より強さが格上のキャラは残虐非道で完全な悪役にする
これはほとんど同じことで、
お騒がせキャラやコメディリリーフが厄介ごとを持ち込み、
悪役の「覚えてろよ」で締める一話完結の類型。
テレビ時代劇や大衆演劇、戦隊モノ、名探偵コナン、
その他枚挙に暇がない。
プロレスなんかも様式美として完成させてる?
一周回ってRPGも当然そう。
他にもまだまだ有りそう。
なろうで一番重要なのは特有の歪さで、例えば可哀想な子供についても、
時代劇とかの意味を正しく理解してる人にとって気持ち悪い書き方をしないといけないと言うね
例えば感動ポルノへの自覚をしっかり書くとかとか素晴らしいから称賛を受けないとねみたいな空気を消し切っちゃうと駄目で、
そこは素晴らしい人間なんだからみんなに称賛されないとおかしいだろうって空気を持たせておく必要がある
一般の作品の意味を理解して見てる人はそこが気持ち悪くて「無理」になる
そもそも水戸黄門や暴れん坊将軍でワルが改心してとか主人公以外の素朴な優しさに心打たれてとか言う流れにケチはつかんし、感謝とかしない恩知らずのダメ人間も別に「しっかり教育しろ」なんてケチは付かない
彼らは理想の為政者像であり、自分を導く指導者であって、自分のアバターじゃないから、恩着せがましさは徹底的に排除され、寧ろ嫌われる
なろうの感想欄見れば分かるけどハーレム要員セクサドール以外へのこの辺のケチの付き方凄いよ
そう言う感想への対処の為に「本人は恩着せがましくする気はないんだけど~」とやりながら作品全体からはその恩着せがましさが漂ってしまう事になる
そんな見方はされてないだろうと思うかもしれんけど、作者はまんがタイムとかみたいな日常系のつもりなんだろうって作品にも平気でそう言う感想ついてるからね
感想欄のせいで読むの辛くなった作品がいくつあるか分からん
他にも一般の作品において重要なのは「過程の形成される道理と仮定の正しさ」なのに対してなろうで求められてるのは「結果の正しさ」なので、主人公の動機やキャラ付けが軽薄にずれる
水戸黄門や暴れん坊将軍は一貫性や統一性があるから「過程の形成が自然でそれが彼の善良さを表す」事と繋がっている為、自然と第三者として信頼感が形成される
なろうの主人公は「結果が正しい」事によって「自分の善さ」を主張する為、現実的存在としては信頼感より不信感が形成される
何故なら行動選択における「中身」「背景にある価値基準」がないに等しいから
どちらかと言うと卑屈で他者からの自己評価にしか興味がない冷酷な人間で、その上に望んだ自己評価を得られないと癇癪を起す子供にしか見えない
しかも無職転生のエリスみたいに「癇癪を起してしまい結局望まぬ結果を招く自分」への葛藤が見られないので冗談抜きで「本性はクズ」にしか見えなくなる
ごもっともで
短絡的、道理的発達障害とでも言えばいいのか
なりそこない、人ならざる、欠けたる者、そんなのがクラスに一人はいたりする
なまじ結果は~の一点ばりだから、成功したら利欲に酔いしれ、失敗しても能力以外の要因を微塵も考えない
見方によっちゃ無敵の人というか、そんな本来理解者がいない奴らがネットでなろう系という枠で同類を見つけたら依存するわな
そして人の在り方に気づく機会も失う
本来、アニメや漫画とかってそんな奴らでも心を強くするための道理を知れるキッカケになるものだったんだがな
真逆を教え込むなろうは流行り病か何かか
草
まぁ、と言うかヒーロー物とか勧善懲悪物見てれば、善人って言うのは不合理な様だけど、
自分より弱く愚かな相手に「価値を見て自然と合わせれる存在」だって書き方しかされてないのに、
なろうはそこん所「善人だから自分は偉くてお前らより価値がある」って前面に出し過ぎなんだよね
人間がどの様な人間かは何を見てどう言う認識をして何を考えるかなんで、
君は民衆を見下して使い潰そうとする貴族や強者と本質はなんも変わってないんだけど?ってなるパターン多いよね
正論っていうほどか? いつも通り特に論理性もない決め打ちだと思うが
2は、そもそも主人公が基本的に正しい側・正義側として描かれるという形式自体は普通。そうじゃないのが成長ドラマとか哲学とかを重視したジャンルというだけ。
実際に読者から見ても主人公が正しいなら何の問題もないわけで、露骨な全肯定とかに見えた場合、それ自体は作者の技量による失敗でしかない。仮にそれでも成功した結果があるなら、それは「成功の秘訣」ではなく「失敗に直結しなかった要素」としか言えない。論理が飛躍してる。
3も、単に魅力的な悪役を書く実力がなろう作家にないだけ。
そもそも根幹は2と言ってることが同じ。そしてこれも敵が理知的で優しかったとしても、相対的に主人公の方がより正しい結論とかを取れるならばやはり問題ないはず。
だからそうした敵が出たことによって失敗している具体例を出さないと何ら論理性を持たない話。
1も理屈の方には根拠がない。
個人的には善行じゃなくて処女厨の比較されたくない心理に被差別階級ヒロインが響くってだけだと思うし。
というか男は原因と結果を求める思考するから、なろうに限らないヒロイン全般として惚れる理由が論理的かつ重いヒロインほど強い。読者の知らんとこで平和に好意が蓄積された蘭ネーチャンみたいな幼馴染みより、灰原さんみたく主人公が作中で助けた不幸ガン盛りなヒロインの方が人気出やすいのは普遍的な傾向。
つまりオタクは依存してくれそうなヒロインが好きで、奴隷は一番簡単に超依存ヒロインが作れる。
正義とされながら行われる残虐性について、古い物語の時代から変わらずに人気を集め続けた性質であることを理解しつつ、その影響を抑えるために戦わねばならないと思った
葛藤のないクズとか言われててエリスたんカワイソス……(´・ω・)
無転については最後まで読めば、主人公にしろヒロインたちにしろそれぞれの等身大の葛藤が描かれていたと思うけど、そうでない見方もあるというのは参考になった。もちろん皮肉とかではなく、そういう枠組みで見ればそういう解釈も十分にありうるだろうなと。
本スレの主旨とはずれるけど個人的に考えたのは以下の2点について。
①いわゆる”なろう系”の「主人公がそのあり方として、自省や自身への批判的精神があまり見受けられないにもかかわらず、全肯定されたり賛美されたりしがち」なのはなぜか
②上記「」部分が昔からある物語の定番の形式なのだとして、他と比較して”なろう系”特有の傾向や性質がその内容にあるかどうか
もし仮に水戸黄門や暴れん坊将軍が、当時のそのコンテンツの受容側がもつ「世間」、「お天道様」といった漠然とした価値規範、具体的には「嘘をつかない(正直者であれ)」、「よそ様に迷惑をかけない」、「みっともないことはしない」といったことを良しとする価値規範と、それに従う者に対する肯定や報われとしての表象(象徴)なのだとすれば、
それはなろう系が、受容側の求める批判的精神をもたない価値観とその現状肯定という需要にあわせて、供給側がそういった作品を生み出してるという「需要があって供給される」という構造と、受容側のこうした思考停止具合については、さほど差がないんじゃないかなということ。
自分が思ったのは、水戸黄門に限らず勧善懲悪ものって、懲罰の過程の自然さや道理のあり方が納得のいくものだから広く受け入れられているんじゃなくて、もともとコンテンツを受容する側がもっていた価値規範を抽出し肯定する形で描かれるのだから、正義やそれを振りかざす権威側の振る舞いに説得力があるのは当然なんじゃないか、相互補完的でありそこまで因果関係がはっきりしていないのでは、という疑問。
以上を踏まえて、
①については他のコメントにもあるようにこうした物語の形式や存在理由は昔からすでにある。つまり、なろう系の主人公のみが当てはまるわけではないので問の立て方そのものが不適当。
②については、コンテンツの受容と供給の構造や傾向自体は以前からあった同種のそれらと大して変わらない。しかしながら、なろう系における主人公の描かれ方が、人のもつ原初的な欲望がよりむき出しになってるように見えるのが醜悪だ、おぞましく感じるといったことが、特有のものだというのは十分に理解できる。なろう系以前の年齢制限のない一般向けコンテンツ(物語)と比較において特に。社会性や他者性の欠如などなど。
批判的精神というのはおおむね自身が依拠するものに向き合い、より精神的な自由を得るためのものというのが自分の認識だけど、それに疲れたらたまには赤ちゃんになってもええやん、という気持ちもあるので、なろう系に対する鬼の首でも取ったかのような糾弾を観測すると、よほど嫌な目にあったんだなあと同情せざるを得ない……。まあいろいろと自分の知らないところに凄惨な現状があるのかもと想像を巡らせるきっかけにはなってるけど。
最後に②の要因について稚拙ながら考えてみると、旧時代の勧善懲悪ものが広く受け入れられていた時の価値規範はもう大体において形骸化してしまったし、それを信じても報われると思えない今の社会状況の中で、代替物としてより個人的かつ原初的な欲望をお手軽に満たせるようなコンテンツに対する需要が生まれ続けているから、というのが愚見。つまり社会的な背景があるので、いくらなろう系が醜悪だからといってそれをたしなむ人の性質や傾向を誹議するだけでは片手落ちなのでは、というのが結論。
自分は時代劇の主人公が受け入れられるのは、作品のテーマや思想の違いとか、勧善懲悪とかじゃなく、主人公がその世界観にあった背景をきちんと持ってるかどうかだと思うよ
時代劇の主人公だって、水戸黄門や暴れん坊将軍に限らず、ヤクザものやダークヒーローだっているし、正義が必ずしもなされる訳じゃない、庶民生活の生き辛さ、ほろ苦さ、暗さ、世間を馬鹿にした露悪的な部分みたいなのの描写も時代劇の主要な部分ではあると思う
そういったものも受け入れられるのは、主人公がちゃんとその世界での経歴や世界観のなかから派生したものを背負って生きている人間であるからであって、なろう系の場合の主人公の説得力のなさは、思想やテーマの違いというよりは、主人公がその世界の背景もなく好き勝手なまま部外者、あるいは読者作者の分身として自由に振る舞っているからじゃないかなと思う
なろう系のなろう系たる所以でもあるけども、彼らは当事者じゃなく、安全圏から批判する批判家のまま、力をもって自分の思うままに介入してるから、そんな人間がなにいっても響かないよねってなる
露悪的な部分や人間のしょーもない部分をテーマにした作品ってそれはそれとしてありだと思うけど、なろう系はそれとは違う部分で批判されてると思う
特に異論もないし、おっしゃる通りだと思う。
自分の書き方が単純にまぎらわしいのと下手くそなので、わかりにくくて申し訳ない。
A時代劇である
B時代劇である、かつ勧善懲悪ものである
C勧善懲悪ものである
自分の意見はこの中でも勧善懲悪ものに、
> 「需要があって供給される」という構造
> 受容側がもつ ~ 価値規範と、それに従う者に対する肯定や報われとしての表象(象徴)
こうした側面があるのでは、ということなので。そしてこれらが勧善懲悪ものの主要な要素、もしくは主題だとまで主張するつもりもない。
さらに言うと水戸黄門や暴れん坊将軍の時代劇の部分にこうした上記の自分の主張が当てはまるともまったく思わないよ。他の作品も同様。
また、なろう系の主人公がその作品を享受してる人以外から見て説得力がないというのには、理由も含めて完全に同意です。
蛇足だけど追記。
こちらがずれた返答をしたせいで、何となく噛み合ってなかったように感じたので。
なんでなろう系への批判、および「同型の物語は昔からある」という反論に対して、時代劇の話がしばしば持ち出されるのか今までピンとこなかったんだけど、ようやくしっくりきました。ありがとうございます。
別の方のコメントにもあったけど、
・作者や読者の分身としての主人公の立ち位置や役割の固定化
・書き手も読み手もその前提を無意識におきすぎる
・これらが作中で客観視されず検証されない
こうした上記のような傾向
(
具体例
・転生、転移した主人公側が文明人であり、現地人は未開人なのだというような決めつけ
・それを可能にする世界設定、およびご都合展開
)
について、肯定や擁護する側の「そうは言ってもおおむね現代人の知識や感性のほうが進歩してるじゃん?」っていうある種の開き直りとおごりに対しての批判なのだと。
加えて言えば、作品の中で描かれる価値規範や価値観の内実の差異について目を向けなかったり、それらの描かれ方の微細な違いを感じ取れないような感性、知性、経験の乏しさ、総じて想像力の貧しさやコンテンツ受容のあり方そのものの稚拙さを指摘したものなのだと。
大きな枠組みでのパターン認識や構造分析をした時に、内容をないがしろにしてよくない形での相対主義、冷笑主義におちいりがちなのは、自分自身についても思い当たるところがあるし、しごく真っ当な指摘だと思います。なのでそういった点に関しては反省ですね……。
その世界観に基づく背景の話って、要するに時代劇はその世界観の当事者目線であるのに対して、異世界転生・転移は部外者が力と外の価値観で独善的に介入するってことでしょ?
それはただジャンルとしての違いを恣意的に言い換えてるだけだと思うよ
それって異世界転移ってジャンルでは必然的な話で、なろう以前から普通にあるんだから、まずなろう系特有の話にはならない。むしろそれでいうと異世界転生の場合は部外者とも言い難いし、つーか最近のなろうは現地主人公の方が多いし
それに、なろうに限らず大衆ジャンルではその世界の部外者や新参者が主人公ってよくある構図でしょ
ヤンキーが美術部入るとか、脱サラして刑事になるとか、詳しくない奴がスポーツの監督とか
そして例えば辺境の村に迷い混んで、そこで子供を生け贄にする風習が残ってたとする。大衆ドラマなら、その信仰とか掘り下げることなく現代人・都会人の価値観に沿って子供を助けて村の宗教潰して、これを勧善懲悪とするのが普通の作り方でしょ
現代基準による浅い「未開人=間違ってる」って構図はそういう形式として当たり前にあって、なろう特有ではない。そういうジャンルってだけ
そういうジャンルなのに読者にとって現代人の価値観で動くことが悪印象として見えたなら、それは結果論であって構造論じゃない
作者が下手か読者が批判前提で見てるかのどっちか
えーと、すいません。
あなたのコメントって 2021年7月2日 7:02 PM の自分のコメントに対しての返信なのかな?
スレッドというかツリーの展開状況がよくわからんくて。
本文の内容的には違う気もするんだけど、名前にはこちらへの批判も含まれているような?
もし自分宛だったらよく読んでから返信します。勘違いだったらごめんなさい!
文章読めてないの草、エリスは葛藤があるから分かるけど、なろうの主人公の多くがポーズだけで葛藤がないから単なるクズになる、やぞ
>>つまり社会的な背景があるので、いくらなろう系が醜悪だからといってそれをたしなむ人の性質や傾向を誹議するだけでは片手落ちなのでは、というのが結論。
これについては批判組はトランプ当選(またはあのパフォーマンスが効果が高い)や石原知事2回当選、嫌韓ブームや日本凄いブームなど、世界的傾向と続く物だってのはずっと言ってるよ
これの原因はナチス裁判に絡んだ騒動とも繋がってる
(ハンナ・アーレントに対する世間的反応)
そういう意味ではずっと人間が抱え続けて来た者で近代現代が乗り越えようと足掻いてる物だよ
あと勧善懲悪物の時代劇とかの価値規範はそんな雑な話ではない
みっともない奴も迷惑かける奴もいるけどちゃんと受容されてるよ
「時間を守ってる俺は偉い、時間を守らないお前はクズ」なんて価値観はない
無職転生は純粋に何かあっても技量的問題やコンセプトとして衝突しやすい物乗っけたせいかもしれんけど、エリスについてはそちらの文章解釈の訂正はしたけど
ルーデウスは正直根はパウロよりクズに感じたな
パウロは馬鹿だしだらしないけど「良い親で居たい」「ゼニスを傷付けたくない」とかの気持ちは本物なんだなって感じたけど、
(図体大きくなってやらかしが性欲になったエリス)
ルーデウスはそもそもその部分がなんか薄っぺらに感じるわ
で、それなのに作品全体としては「本当は良い奴で凄い奴なんですよ」みたいな感じ出されまくってて、
「え?無理。キモい」ってなったわ
成り上がり物や一種の英雄譚だから、意識的に中和しないとそう見えるって話の部分が大きいのかもしれんけどね
プロなんかだとそう言うのも日常での失敗を書きまくって先に下げて置くとか、そもそもメタ的にリアリティラインを特定方向だけ統一させるとかいろいろ注意してる作品が多いけど
あと、キャラの価値観や世界観を揺らぎを含めて強く意識してる、かな<プロ
芯の強さを割と強めに作っちゃうって話でもあるかもしれんけど
(実際の人間はもっと芯が弱く映る物だけど、意図的に少し芯が強い様に見える方に寄せる)
例えばパウロは馬鹿で無能だけど「良い親で居たい」とかそういう所は本気なんだな、と言うのは、
「失敗したら落ち込んだり後悔したり悩んだりする」とか
「やり方がまずくても目的意識とかは外れてない」とか、
そう言う所で芯が割と強めに書かれてる
だから「命を捨てる」場面が「ぺらっぺらやな、でどうせ生き残ってなんて勇気のある優しい人なんだって言われるんやろ。あ、やっぱり」ってならん訳な
で、主人公とかでもこう言う所きっちり整えてると、主人公に感情移入しやすいし、作品と現実(作者)の切り離しも強化されるから、「作品がキモい」にならないんだよね
ああぁーエリスの話については完全にこちらの勘違いです。ごめん!
主語の省略で読み間違えたんだけど、全体の文脈から察せただろうし、いずれにせよ自分の間違いだ。すいません。
> これについては批判組は ~ 近代現代が乗り越えようと足掻いてる物だよ
このくだりに関しては似たような問題意識を持っていたのでかなり共感できた。ただ自分の無知ゆえにアーレントとかナチス裁判の話は理解できなかったので後で調べてみたいし、こうした機会をくれてありがとう。また、自分はここをのぞくようになってから日が浅く、そちらがこうしたことについてもずっと言及してきたというのを知らなくて申し訳ない。
勧善懲悪ものの時代劇とかの価値規範についてその内実に多様性があるのはおっしゃる通りだと思う。寛容さについては「お互い様、持ちつ持たれつ」とか「だらしないけど憎めない奴」とかそういった価値観や感覚になるのかな。
ただ自分があげたつもりだったのはあくまでサンプルとしての具体例なので、こちらの価値規範についての説明内にある、「具体的には」 を 「具体例としては」、に可能なら修正させてほしい。そしてこれが許されるのならば、自分の主張はその価値規範の内実の差異について言及してるのではなく「元からある受容側の価値規範や感覚→抽出→物語」という構造についての言及なのだとわかってもらえると思う。
さらにはこうした構造が勧善懲悪ものの全てに当てはまるとまで言うつもりはなく、単に価値規範の形成における因果関係について一方通行なのではなく、実際には相互補完的な側面もあるのでは、という程度の話なので、そちらの意見を全面的に否定する意図はないし、自分のコメントで不快になったとかであればごめん。
あと作品の受け手側がそもそも内在化していた価値規範が劣化してるとかそういった話であれば、まったくその通りだと思いまふ……。
ルーデウスのクズ性についての感想はほぼ同じかな。ただ自分が価値を見出してるのは、そのルーデウスがほんの少しづつではあるけども、普通というかまともになっていく彼なりの成熟過程なので、演出が気持ち悪いのはその通りなんだが、そこ否定するとクズが少しづつまともになっていく物語を肯定できなくなるのでなかなか苦しいところやね……。
あと利他性についての価値観を素朴に信じることができなくてどうしても薄っぺらくなるのは、自分もそうだけど現代人にはなかなか厳しい気がするよ。まあこの感覚には何の根拠もないんだけど。
だからパウロのほうが芯が強くて、説得力あるというのもわかる。ルディは特に序中盤はブレブレだからなあ。まあなんにせよ耳の痛い話ではある。
プロの手法については、なるほどという感じですごくわかりやすかった。どうもありがとう。
丁寧な返信ありがとうございます
ハンナ・アーレントのナチスの件については
彼女が唱えた汎用なる悪やその目線からの対応に伴って、
彼女がユダヤ人同胞の壮年層から蛇蝎の如く嫌われたって話ですね
(友人は一人を除いてみな向こうから縁を切った)
後年その理論が受容されたのが、世代の変化なのか、感情的だったのが収まったのかは分かりませんが、学院で生徒相手にその辺の話をし、学生からは肯定的に迎えられて、その後徐々に受け入れられていったので悲惨なままだったと言う訳ではないですけどね
ちなみに唯一友人で居続けた牧師はハンナの論には「その通りだけどハンナの要求は人間には難しすぎる」と言っているし、まぁ、そう言われるのも分からんではない
(そもそも自分もハンナ基準で言えば考えが相当足りてないだろうと思うし、感情的になりやすい自覚もあるので、まぁ、難しいなと言うのはあります
一応、感情的でその場での判断は誤るとか単に論理力不足で誤る以前の問題と言うタイプにはならん様にしたいとは思ってます)
無職についてはそちらの話読むとルーデウスがちゃんと成長して行く所がちょうど見てないからかもしれないって言うのはちょっとありますね
序中盤辺りで脱落してるので…(シルフィ再会辺り)
クズ主人公もクズ主人公として書いてるんだな、と思えば受容出来るんですが、その辺が感じれなくて「え?無理」と言う感じで脱落した感じですね
この辺は作者がTwitterで「そう言うメタメッセージを省くように書いてた」「物語上の事実を淡々と描くように努めた」と言う話なので、その辺の読み取りに齟齬があったのかな?と言うのはありますね
一般ウケしやすいかって言うと創作物って「娯楽」ですが、その「娯楽」の前段階に「コミュニケーション」がありますからね
フィクションってリアルとファンタジーごちゃまぜなので、そこがどっちなのか「共有」されてないと別の意味になったり物語が空中分解してしまうものなので…
(例えばルーデウスと言う人間が人間としてリアルである必要がない、を突き詰めると、行動や思考を連続的に捉える意味がなくなる)
更に言うと「リアル」側には作者の世界観が出てる事になるのでどうやっても「政治的に対立」しやすい部分になると言うね
(そうだ難民になろうへの強い批判を「フィクションなのに」と言う人がいないのと同様)
いえいえ、こちらこそありがとうございます。
アーレントのそのエピソードについてはめちゃ面白かった!軽く調べたら他にもアーレントの思想は自分の興味関心の領域に直撃っぽかったので、この点についてもあらためてお礼を言いたいです。
社会や政治に絡めるなら、なろう系のアレな感じは現代の傾向のあらわれの一つでしかなく、所詮そこで肯定されるのは個々人の範囲に収まる動物的かつ原始的な欲望なので、それ自体がなにか大きな影響力をもつとはあまり考えられないんじゃないか、と自分は思ってます。
他方で、自己肯定感や承認欲求のために宗教、民族、国家といった大きな共同体に依存しすぎると、それが何かやらかした時に大惨事になるので、規模的にはそっちのほうが警戒が必要なのかなと。<日本凄いブーム等について
道理、道徳といった言葉に自分がつい反応しちゃうのは、そのまがい物というか似て非なる何かが、先述の大きな共同体のプロパガンダによく利用されるからで、だから勧善懲悪もののスタイルをもつ物語に構えてしまうところがあるんだと思います。
もちろん水戸黄門や暴れん坊将軍はどう見ても無害な大衆娯楽であり、またささやかな教訓も得られる良作品だと思うので、端的に言ってこの話題に関してはこちらの過剰反応だったかなと。そして何かを論じるときにその内実には触れず、構造だけを取り扱うのはそれこそ片手落ちでした。
あと「罪を憎んで人を憎まず」ではないんだけど、問題の原因として属人性とは別に、こうもっと周辺環境なり時代性について構造分析的なものの必要性を常日頃感じてて。思ったよりも人の意志や行動は本人の自由にならないのでは、と。そういう意味ではアーレントの「汎用なる悪」もその牧師の話も非常に共感できる。
また、これも私見だけど現代の特徴のひとつとして、自主自立、自由平等、個性尊重を推し進めることで、精神的にも物理的にも生存における他者の直接的な必要性が目減りしていき、結果として他者性にまつわる経験と想像力、個々人の内包する多様性が縮小してるという迷走っぷりがあるとも考えてます。
無職転生については、なろうでの連載当時(2012年11月初出)に想定された読者層を自分なりに想像すると、対象としていたのはやや旧タイプのオタクだったのかなと。このオタクというのは「一般文芸や娯楽を修めてない人」という意味です。
あとふと思ったけど、ルディが作中で挫折したり落ち込んでる時のあり方がキモいって叩かれがちなのが、
「オタクが内に閉じた価値観で落ち込んだり反省してる以上、何してようが結局はキモいんだよ」
って言われるのとまったく同じでなんかわらっちゃったww
まあオタクの難儀なとこなんだろうけど、自分もクズ&オタクの一人としてわかってしまうのがつらいところ……
なのでこうしたことを踏まえると、そちらの無職についての一連の意見、
・主人公のクズ性が明示されてない
・作中の描写における現実的な要素の延長と反映、それに対する虚構(ファンタジー)部分の別が読み手に共有されづらい
・結果として書き手と読み手のコミュニケーション不全がある
このへんに関してはもっともだと思う。
自分の見方としてあくまで好意的に見れば解釈の余地が残されてるとも言えるが、逆に描写のあり方が典型的なオタク仕草になっていて書き手の意図が伝わりづらい、とも言える。
こんなとこかな。以上、長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。
普段こうした長い文章を伴う意見交換の機会ってなかなかないので楽しかったです。
インセルの妄想の話で何が気持ち悪いか一番分かりやすいネタは、
オタクの「優しくて誠実で真面目な俺に女が股開かないから優しいのは無価値だし優しくするの止める」やな
「優しいとか誠実とかの概念が迷子」「優しくて誠実で真面目→× 打算的で臆病で卑屈→○」ってなると言う