漫画アニメ映画小説の考察してる奴が理解できないんやが
1: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:23:40.45 ID:E3kDdQDtM
「ここでなぜAはBに〜〜と言ったのか…それはAが昔から親にーーと言われてたからだと思うんです」
いや全部物書きのおっさんが適当に考えただけだぞって思うんやが
29: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:30:36.78 ID:do1rE755H
>>1
これは本気で思うんだけど
アニ豚に言ったらガチギレでアスペ認定されたわ
これは本気で思うんだけど
アニ豚に言ったらガチギレでアスペ認定されたわ
40: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:33:11.76 ID:E3kDdQDtM
>>29
むしろ登場人物に入り込んでるやつこそアスペというかハッショっぽいのにな
むしろ登場人物に入り込んでるやつこそアスペというかハッショっぽいのにな
3: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:24:07.35 ID:OOiddldYd
分からん
4: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:24:29.85 ID:ij1XXRNb0
何が言いたいのかわからん
8: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:25:14.84 ID:E3kDdQDtM
>>3
>>4
IQひくそう
>>4
IQひくそう
10: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:25:42.13 ID:ij1XXRNb0
>>8
IQ低いキミの説明が悪すぎるんやで
IQ低いキミの説明が悪すぎるんやで
11: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:26:01.67 ID:E3kDdQDtM
>>10
1に書いたけど
理解できんなら無理やぞ
1に書いたけど
理解できんなら無理やぞ
6: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:24:41.62 ID:U/WlijHn0
物語はちょっと自分の中で変数すると奥深くなる
9: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:25:40.11 ID:E3kDdQDtM
>>6
それはやる
それはやる
7: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:24:47.41 ID:E3kDdQDtM
ワイも小説好きやから読んでるけど「うわあこの表現上手いなあ」とか「この人物描写すげえな」って思うんやが
その小説の中の登場人物がどうだったかなんて考えてる奴ガイジやと思う
その小説の中の登場人物がどうだったかなんて考えてる奴ガイジやと思う
13: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:26:17.93 ID:U/WlijHn0
>>7
小節は文字が全てなんやから文外のことも含めて読む形になるやろ作者はそこまで考えてるよ
小節は文字が全てなんやから文外のことも含めて読む形になるやろ作者はそこまで考えてるよ
16: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:26:41.51 ID:E3kDdQDtM
>>13
だからええやん
だからええやん
18: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:27:00.41 ID:SCkR+dara
>>7
何この文章
自演ミスった?それともガイ?
何この文章
自演ミスった?それともガイ?
19: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:27:16.61 ID:E3kDdQDtM
>>18
どういうこと?
どういうこと?
27: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:29:36.65 ID:SCkR+dara
>>19
>>7がイッチと同じ人物なら「ワイも〜」とはならんやろ
>>7がイッチと同じ人物なら「ワイも〜」とはならんやろ
30: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:30:42.86 ID:rQ0VhMTV0
>>27
考察勢に対してワイも、やろ読解力ないんか消滅よめ
考察勢に対してワイも、やろ読解力ないんか消滅よめ
34: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:31:27.34 ID:E3kDdQDtM
>>27
日本語勉強した方がええで
「(考察して奴と同じく)ワイも」や
日本語勉強した方がええで
「(考察して奴と同じく)ワイも」や
36: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:31:47.81 ID:E3kDdQDtM
>>34
「考察してる奴」な
「考察してる奴」な
38: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:32:17.31 ID:ij1XXRNb0
>>34
>>36
キミ小説読むの好きなわりには日本語下手よな
>>36
キミ小説読むの好きなわりには日本語下手よな
41: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:33:45.08 ID:IN8hT3yN0
>>38
婉曲的に読書を高尚化するガイジ嫌いやわ
婉曲的に読書を高尚化するガイジ嫌いやわ
21: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:27:51.17 ID:IN8hT3yN0
>>7
それやったらスレタイは
「アニメ漫画小説の登場人物の心情を考察してる奴が理解できない」
にして方が良くない?
それやったらスレタイは
「アニメ漫画小説の登場人物の心情を考察してる奴が理解できない」
にして方が良くない?
25: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:28:45.79 ID:E3kDdQDtM
>>21
細けえよ
細けえよ
33: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:31:26.07 ID:IN8hT3yN0
>>25
考察って言ったら
作者は○○の経験を元にこれを書いたとか
○○の影響を受けたとか
断片的な描写を元に世界観を考察することまで含まれるやんか
考察って言ったら
作者は○○の経験を元にこれを書いたとか
○○の影響を受けたとか
断片的な描写を元に世界観を考察することまで含まれるやんか
39: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:32:51.31 ID:U/WlijHn0
>>33
作品内の描写以外を持ち出し始めたら終わりよ
作品内の描写以外を持ち出し始めたら終わりよ
14: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:26:20.27 ID:vCE9Py8w0
これは自分が賢いと思い込んでる馬鹿
15: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:26:30.57 ID:ij1XXRNb0
>>14
ほんこれ
ほんこれ
17: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:27:00.18 ID:E3kDdQDtM
>>14
学歴は?
学歴は?
20: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:27:37.10 ID:868MupnZ0
考察できないやつは糞!作品見るな!って言ってくるやつきらい
23: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:28:22.24 ID:E3kDdQDtM
>>20
わかる
わかる
24: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:28:27.17 ID:vCE9Py8w0
>>20
ありがちやけど考察をもてはやし過ぎて排他的になるのはあかんわな
ありがちやけど考察をもてはやし過ぎて排他的になるのはあかんわな
22: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:28:14.90 ID:868MupnZ0
楽しそうな雰囲気と音楽だと思ってのんきに見てるのの何が悪いのですか
26: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:28:57.72 ID:E3kDdQDtM
>>22
それはいい
それはいい
28: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:30:06.01 ID:+HsAivYza
別にただ見たいだけなら好きにすりゃいいじゃん
31: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:30:47.45 ID:hYfYfpxf0
まあ絶対作者そこまで考えてないよってのはあるな
32: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:31:07.31 ID:5j9YbrvO0
まぁわかる
37: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:32:03.79 ID:UL5one5k0
考察の対象とか範囲とか論の組み方によるわ
作者の生い立ちから作品のことを読み解くとかはわかるが
読むに堪えない考察が多いのもまたわかる
作者の生い立ちから作品のことを読み解くとかはわかるが
読むに堪えない考察が多いのもまたわかる
42: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:33:51.76 ID:UNRz/OGW0
考察すんのはええけど正直作り物にそこまで熱意注げるのがわからんわ
43: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:34:20.75 ID:u43boxTLa
頭空っぽにして見たほうが楽しいだろ
「俺の考察当たったニチャ」やりたいだけ
「俺の考察当たったニチャ」やりたいだけ
48: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:35:35.20 ID:U/WlijHn0
>>43
それは作品によるやろ…頭空っぽでは繋がりも追えんで
それは作品によるやろ…頭空っぽでは繋がりも追えんで
45: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:34:59.10 ID:9ytuXNabp
その作品だけ見て楽しめると思うのが甘え
絵画だって音楽だって周辺情報がないと理解できない芸術なんて山ほどある
単なるエンタメだけ見てたいならええけど
絵画だって音楽だって周辺情報がないと理解できない芸術なんて山ほどある
単なるエンタメだけ見てたいならええけど
52: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:36:39.23 ID:U/WlijHn0
>>45
こういうの言い始めるとめんどくさくなる
こういうの言い始めるとめんどくさくなる
56: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:37:27.56 ID:OMBBNCDJ0
>>45
これだな
絵画なんてバックボーンありきだからわざわざ脇にキャプション付いてんのに
俺でも書けるとか言ってるガイジ見るに耐えん
これだな
絵画なんてバックボーンありきだからわざわざ脇にキャプション付いてんのに
俺でも書けるとか言ってるガイジ見るに耐えん
47: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:35:29.84 ID:SBYJlaa3d
たとえば「あなたも私を嫌いになるの…?お母さんみたいに嫌いなの?」ってセリフで
彼女は母親からの愛情を注がれずに育った人間だと思うんです
ってのもアホみたいな考察なんか?
彼女は母親からの愛情を注がれずに育った人間だと思うんです
ってのもアホみたいな考察なんか?
50: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:35:49.72 ID:kH5p5U2YM
連載モノなんかはどうなるんだろう~もしやこうなるのかな?って考えたりするけど映画や小説はそんなこと考える暇もなく進むじゃない
51: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:36:07.15 ID:OMBBNCDJ0
自分で考えもしない知識もない奴が他人の考察をグダグダ否定してる方が恥ずかしいだろ
興味ないなら話題に入って来んなよと
興味ないなら話題に入って来んなよと
53: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:36:45.21 ID:do1rE755H
漫画の専スレでもそうなんやけど
登場人物の考察延々としてるやつ見ると
「そんなん作者の胸先三寸やん」って思うんよな
登場人物の考察延々としてるやつ見ると
「そんなん作者の胸先三寸やん」って思うんよな
54: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:37:00.21 ID:Rj20UKlQ0
でもさ
作品のこと本当に細かく考えてたら、些細でも全てのことがリンクして凄い快感与えてくれるんよ
殆どの作家は適当やけどな
作品のこと本当に細かく考えてたら、些細でも全てのことがリンクして凄い快感与えてくれるんよ
殆どの作家は適当やけどな
57: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:37:34.11 ID:9rKURTIz0
わいもこの伏線が物語上こうなってくはずだという未来予測的な考察はあんまり興味ないな
ただ全部をみてこの作品は局所的にあるいは全体の主題としてこれが伝えたかったんだという意味付けは行うけど
ただ全部をみてこの作品は局所的にあるいは全体の主題としてこれが伝えたかったんだという意味付けは行うけど
61: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:38:27.38 ID:TuhIEstu0
心情の考察ってむしろアニメより小説とかでやることの方が多くねえか
65: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:39:44.31 ID:U/WlijHn0
>>61
アニメとかまずアニオリじゃないと考察も何もないからな
アニメとかまずアニオリじゃないと考察も何もないからな
64: 名無しの読者さん 2021/10/04(月) 17:39:36.58 ID:yHbN7pJO0
人の考察知るのはこと好きやけどなんでそもそも考察が必要な濁し方したんやろうなとはいつも思う
出典:https://swallow.5ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1633335820/
「表現」や「謎」はともかく「心情」の考察ってしたことないです。(大抵自明なので)
ディスカッション
コメント一覧
考察勢って自分の考察の正誤って気にならないのかな?
俺(考察勢の話を聞くだけ勢)はどこかで作者直々に答え合わせしてほしいと思ってるんだけどそんな機会ってまず無いじゃん?
自分は気にならないタイプかな。
基本的には与えられた情報以上のものが自身の中に波及していくのが楽しいというのがおそらく肝なので。だから正誤はあまり問わないんじゃないかと。
とは言え、webインビューとかで作者の意図が明示されて、その内容から自分の思考(考察というほどでもない)が明らかに間違ってたとわかった時にはもちろん考え直すけれども。
あとは考察の対象として、そもそも正誤関係が明確なものとそうでないものがあるので、特に後者に関しては、スレ中の6がいう「物語はちょっと自分の中で変数すると奥深くなる」が感覚としては近いのかなとも。
ふむー、そういうものなのか。俺はそれこそ国語のテストか何かのように作者の意図を正確に読み取りたがってしまうタイプだからなぁ
っていうかもしかして、そちらの言うところの「正誤関係が明確ではないもの」の方を考察しようとする事を主に考察と言うのかな? だとしたら正誤を気にしないのも納得というか当然なのかもね
蛇足かもだけど、いちおう補足として。くどくでごめん。
考察にたいするイメージとして、おそらく一般的に共有されているのは、「正誤関係が明確なもの」を推察すること。例えば、殺人事件を題材にしたミステリー作品において犯人が誰かを考察する、といったような。作品内における事実関係から正解を導き出すというもの。
だからagdjmpwtさんの「作者の意図を正確に読み取ろうとする」感覚はむしろきわめて妥当というか真っ当というか。
一方で考察勢の実態としては、上記のものも含めてもっと考察の対象範囲は広く多岐にわたる。それこそ妄想じみたものまで。まあ自身の勘違いまで含めて面白い、楽しいという感覚もあるんじゃないかと思う。少なくとも自分はそう。
いずれにせよ考察のあるなしは、その人その人の、あまたある作品との関わり方のひとつでしかないので、それによって決まる優劣は何らないと思ってる。まあ、これについては個人的な考えだけどね。
いや、ありがとう。こちらこそ察しが悪くて申し訳ない。あと打ちにくい名前で申し訳ない・・・
考察勢が思ったよりも手広かったけど、勘違いも含めて楽しむ、と言われて腑に落ちた感がある。確かにそれなら正誤は気にしないかもしれない。俺だって妄想に正誤は求めないし。
そして考察で優劣は決まらないというのも大切な考え方だと思った。それこそ元スレの>>1に聞かせたら何かが変わっていたかもしれないと思うくらいに
えぇー
物語の登場人物の行動原理とか判断基準とかいろいろ考えたりしない?
まあ楽しみ方は人それぞれとは思うけども
これ完全に邪推だけどなんか批評全般にコンプレックスでもあんのかな……
どうせ考察厨にイジメられて憎しみで視界真っ赤になっちゃっただけの逆張りくんやろ
そんな「考察」してると、イッチにガ〇ジ認定されちゃうぞ。
AルートでもBルートでも本筋に影響無いような
「切り捨てられた描写」なんて、どっちでもいいと思う。
webに垂れ流すのは好きにすればいいけど、
他人には押し付けないように。
観測されていない描写は存在しないわけではなく、
確定していないだけ、とかいう言い訳が出てきそう。
(原作とアニメで言ってないだけとかいうやつ)
考察の要らない作品っていうのはあるけど
考察自体が要らないってのはないなぁ・・・
「どうしてこうなった?」とか「この人は何を考えてこういう行動をとったのか?」とか、「何故?」を掘り下げる行為は、フィクションに限らず現実においても普通にやると思うし、大半の人は「フィクションだから無意味」とか考える前に、無意識に「何故?」を追求してるんじゃないかな。
歴史風俗の研究とか心理学とか事件事故の調査とかの専門的な事柄はもちろん、社内ルールの成り立ちとかペットの謎行動とか、「何故?」を掘り下げることでスムーズに回る事柄って日常にいくらでもあると思うし…
明文化されていない設定を、これまでの情報から紐解き、見えていなかったものが見えるようになるってのは面白いけどな。
作者の胸先三寸?には変わらないけど、だからといって作者の都合でロジックを壊すようなことするとシラケルしな。
>その小説の中の登場人物がどうだったかなんて考えてる奴ガ○ジやと思う
つまり文科省はガ○ジの集まりだった…?
イッチが1で挙げてるやつって普通に匂わせ・バックボーンの範疇だと思うんですけど…
Twitterでも「考察は考察じゃなくて読み手の妄想と言え」とか言ってたガイいたし
考察厨に親でも殺されたんか?
とか普段考えない人なのだろうか
遠藤周作だっけ?
自分の作品が出題された東大の国語の試験解いたらあんまり出来なかったって逸話があるのは
基本的にキャラを作り込む時に、過去の背景設定(トラウマ)と、それを現在どうひきずってるか、それがどのようにそのキャラの行動に現れるか、あたりを考えるので、興味を持ってもらえると嬉しいのでは。
(メインのキャラはストーリーの進行でトラウマが解消されるというのがお手軽な小技)
特に作り込んでない脇役とかで、明らかに違う妄想を語られると「それは違う」とか「そういう解釈もあるのか」って考えそう。
考察されるような日は来ないと思うのだけれど。
「作者の意図」ばかり気にする読み方は、言っちゃなんだが底が浅い
「小説を読む」という行為を国語のテストだと思っている輩の発想
教師や採点者の顔色窺う読み方しかできないから「正解」などという幻想に固執するのだ
「作者の意図」を離れた読み方なんてしたら、底が浅い以前の問題
登場人物の感情や思想、物語における出来事の意味は作者の意図に則っているのだし
畢竟、文章の読解はコミュニケーションだから
作者の意図を気にするのは読書の大前提
コミュニケーションとして書かれた論文や、教訓などがある物語もあれば、そうでないものもあるので、大前提はモノによる
「そうでないもの」には何があるんだ?
横からで申し訳ない。
納得いくかわからないけど、以下の作品なんかは「作者の意図」を離れた読み方もありうると思う。
カフカ「変身」
梶井基次郎「檸檬」
上記のような作品における読み手の解釈や読解は人によって本当に様々だし、このことこそが、物語内の各要素が作者の意図に則っていることとはまた別のところでも、読者の認識が成立していることの証でもあると思う。
そして読み手のそれぞれの解釈や考察が、底が浅いか深いか、それ以前の問題かどうかは、どのような価値体系かによって判断されるのではないかな。
読書は確かに書き手と読み手のコミュニケーションではあるかもしれない。
しかしながら言葉や文章表現に含まれる意味の振れ幅を考えたときに、作者の意図を大前提としない読書体験があってもいいし、それこそが考察の楽しさ、ひいては読書体験の多様性につながっていると自分は思っている。
もちろん抵自さんがこうした事に価値を見出さないとして、そのこと自体を否定するつもりはまったくない。
言葉の意味の取り方や物語の解釈に振れ幅がある事は、作者の意図に則らない読み方が正当である事の根拠にはならない。
なぜなら、普通、作者(何かを伝えようとする者)は誤解される可能性と常に隣り合わせに立っている。
それをネガティブに捉える作者は可能な限り語句を定義し、詳細に、論理的に、明確に述べようとする。そういう文章に対して読者が勝手な解釈(誤解)をキめれば、それはコミュニケーションの失敗でしかない。
逆にそれをポジティブに捉える作者はむしろ振れ幅を利用して、敢えて多義的に解釈できるようにする。そういう文章に対して読者が勝手な解釈をキめるのは、作者の意図に則った事である。
また、敢えて多義的な解釈の余地を作るほど積極的ではなくとも、多くの小説家は振れ幅に対して寛容なので、厳密に物語の意味を規定するような描写は少なく、大抵の物語には想像の余地が残されている。
ぽこぽこさんが例に挙げた作品は恐らくそうしたものだろう。
ところで、ぽこぽこさんは「作者の意図を離れた読み方があるかないか」で主張を展開していらっしゃるが、一連のコメントにおける焦点は「作者の意図を気にする読み方は底が浅いか否か」と「作者の意図を気にするのは読書の大前提であるか否か」。
「作者の意図を離れた読み方があるかないか」の話をするなら、それは私もあると思う。
しかしそれは例えば、フロイト心理学のように、「ここで棒状の物が出てくるのは男根のメタファーであり、よってこの小説は実はセックスの事について描写しているのである」といったようなトンチキな解釈でしかない。冗談としてそういう読み方をする分には面白味もあるだろうが、大真面目にそんな読み方をされては作者にしては堪ったものではないし、客観的に見てこじつけの過ぎる痛い人でしかない。
作者の意図を離れた読み方をするにしても、それはあくまでも邪道、おふざけのようなものであり、前提として作者の意図を最低限把握(コミュニケーションが成立)していなければならないというのが、私の意見です。
追記、作者の意図を離れた読み方って、極論すれば、「犬も歩けば棒に当たる」という文章を読んで
「猫は棒に当たらない」と読んだり、もっと悪くすれば「猫が歩く」という文章の意味を「犬が空を飛ぶ」という風に解釈するのも有りという話になる。
そこのところを考えてくれれば、「作者の意図を気にするのは読書の大前提」という言葉の意味も呑み込めるのではないかと思う。
私も横からだけど
たぶんこのツリーは一個上のコメントに対するレスってことなんだと思うけど、その一個上のコメントって「作者の意図」を離れた読み方をしろって意味では決してないと思いますよ
随筆や論文ではその限りではないけど、小説の場合はまず気にするべきは「作者の意図」じゃなく「作中人物の意図や感情」ってことを言いたいのかと
ちょっと言い方難しいけど「作中人物の意図や感情」を慮るうえで「作者が意図した作中人物の意図や感情」と言う捉え方ではなく「リアルに存在する作中人物の意図や感情」として捉えた方が読書経験がより華やかになる、的なことを言いたいのかと
要するにそんな俯瞰的な読み方しないでもっと感情移入した方が楽しいじゃんってな程度の話かと
〉その一個上のコメントって「作者の意図」を離れた読み方をしろって意味では決してないと思いますよ
そんな事わかってるって……
「作者の意図を気にする読み方は底が浅い」という主張と「作者の意図を離れた読み方をしろ」は全然別の主張でしょう?
私は「作者の意図を気にする読み方は底が浅い」という主張に対して否を突き付けたまで。
あと「作中人物の意図や感情」は「作者の意図」に基づいているのだから、作者の意図は大前提。
作中人物の意図や感情を「リアルに存在する作中人物の意図や感情」として捉えるのは結構だけど、そういう読み方をしても作者の意図からは離れない。そしてそういう読み方が作者の意図を気にしない読み方より底が深いというのは意味不明(一応言っておくと、底が深い云々はOTZさんの意見に対するものではなくて、「作者の意図を気にする読み方は底が浅い」という主張に対してものね)。
横やりがうざくなってきたので、議論が噛み合っていないものには返信しません。
うん、だから上手く否を突き付けられてないと言うか、微妙に反論し切れてないってことです
「作者の意図ばかり気にするな」と「意図自体は正確に読み取る」ってのは案外両立し得るからね
「ばかり」が大事と言う話
まあそもそも本人が私が解釈したような意図で言ったかは結局分からないし、おっしゃる通り返信はけっこうです
議論や反論ではなく忠告として。
間違う事は致し方ないけども、その場合、非を認めるか、認めないにせよ負け犬の遠吠えみたく噛み付くのは止めましょう。論破されたら黙る、で済む話です。
まず、OTZさんの意見は、誤読していないと有り得ない。
繰り返しになりますが、「作者の意図を気にする読み方は底が浅い」という主張と「作者の意図を離れた読み方をしろ」は全然別の主張でしょう?
まずここを勘違いしているのに、「うん、だから上手く否を突き付けられてないと言うか、微妙に反論し切れてないってことです」という主張は不可能です。論点ずらしどいうか、こういう認識なら最初に自分で言った意見は反論に関係の無い事を述べているだけです。
OTZさんの先の主張:「リアルに存在する作中人物の意図や感情」として捉えた方が読書経験がより華やかになる
OTZさんの後の主張:「作者の意図ばかり気にするな」と「意図自体は正確に読み取る」ってのは案外両立し得るからね
これらの主張は主旨も論点も全く異なっています。
また、私の意見は「作者の意図ばかりを気にする読み方は底が浅い」という意見に対する否であり、論拠は「作者の意図を離れた読み方は正常な読み方ではない」です。私に反論したいのなら、OTZさんは、「作者の意図ばかりを気にする読み方は底が浅い」という事を証明するか、「作者の意図を離れた読み方こそ正常である」事を証明しなくてはなりません。
(勘違いしているようなので更に書いておきますが私の反論は「作者の意図ばかりを気にする読み方は底が浅い」という意見に対してのものであり、「作者の意図ばかり気にするな」というOTZさんの誤読した意見に対してではありません)
OTZさんの先の主張は、そもそもが「作者の意図を離れた読み方をしろという意見に対する否」というOTZさんの脳内で作り出された架空の議題に対する反論です。その指摘を受けて、訂正するでもなく、自分自身の主張も顧みない論点ずらしで、自尊心を守る方へ逃げた。
そういうやり方は単純に相手を苛付かせ、議論にも益しないどころか、害悪ですらあります。今後は是非とも止めていただきたい。
丁寧な返信ありがとうー
若干カオス気味だけど、自分は自分でよく考えてから返信したいので可能であれば少し待っていただければ。
抵自さん宛です
スレッドが混濁してきた……
ごめん、本当にわけが分からない
「作者の意図を気にする読み方は底が浅い」という主張と「作者の意図を離れた読み方をしろ」は全然別の主張だからこそ
>「作者の意図」ばかり気にする読み方は、言っちゃなんだが底が浅い
に否を突き付けるためのコメントの第一声が
>「作者の意図」を離れた読み方なんてしたら、底が浅い以前の問題
では反論として成立してないってことなんだけど
A:作者の意図ばかりを気にする読み方は底が浅いと言う考え
B:作者の意図を離れた読み方をしろ、するべきだと言う考え
Aを否定したいのに「Aは底が浅い以前の問題」ではなく「Bは底が浅い以前の問題」って言っても仕方ないでしょ?
すまん、私どっか致命的な誤読かなんかしてる?
〉すまん、私どっか致命的な誤読かなんかしてる?
はい、してますね。
〉B:作者の意図を離れた読み方をしろ、するべきだと言う考え
どこにこんな事が書いてあるんでしょうか?
いちいち自分の都合の良いように相手の主張を歪めるのは止めましょう。
いい加減にしてください。
>「作者の意図」を離れた読み方なんてしたら、底が浅い以前の問題
いや、そりゃあちょっと語尾は変えたけど、本当に文意は特に変えてないつもりなんだよ
ごめん、マジであなたとは語感が合わなすぎるのか宇宙人とでも話している気分になってしまう
ええっとつまり上級読者さんのコメントへのOTZさんの認識
「A:作者の意図ばかりを気にする読み方は底が浅いと言う考え」
はおそらくあっていて、それに対する抵自さんのコメントへのOTZさんの捉え方に齟齬があるように見えました。
「「作者の意図」を離れた読み方なんてしたら、底が浅い以前の問題」っていうのを私なりに砕いてみると
「作者の意図ばかりを気にするのは底が浅いって言ってる奴がいるが、作者の意図を気にしない読み方をする奴なんてのは(上級読者さんは)底が深いとか浅いとか以前の問題だぜ」っていう事ではないでしょうか。
ですから私は抵自さんのコメントは上級読者さんへの反論となっていると捉えました。
最後に個人的な意見ですけど、人を煽るのが楽しいのは分かりますけど認識がどうずれているのか、どうすれば正せるのかを理解するために、忠告だのゆがめるなだの言ってないで相手の主張を読み解いてみることも大事だと思いました。
私も最初はそう読み取ったので
>「作者の意図」を離れた読み方なんてしたら、底が浅い以前の問題
この文章の前半部分(=作者の意図を離れた読み方をすること)って言うのが上級読者さんの意見(作者の意図ばかりを気にする読み方は底が浅い)を抵自さんなりに要約したパートだと思ったんですが、両者は全く別の主張だとご自身でおっしゃられるので混乱してしまって
何にせよ、間に入っていただきありがとうございます
どうも何を書いても神経を逆なでしてしまいそうですので、これでお終いとします
呆れて物も言えん。
宇宙人と話している方がマシ。
>「作者の意図」を離れた読み方なんてしたら、底が浅い以前の問題
〉B:作者の意図を離れた読み方をしろ、するべきだと言う考え
この二つが同じに見えるような読解力なら、もう二度と返信しないでくれ。
その2つは同じに見えてませんよ、前者の前半と後者が同じに見えてるだけです
でも本当にかみ合わないみたいなので、これで終ります
からんですいません
抵自さん
あらためて返信ありがとう。
フロイトうんぬんについてはよく聞く話とは言えちょっとわらってしまった。
抵自さんの書いてくれた個別具体例、また「一連のコメントにおける焦点をこちらが見誤っている」という指摘や追記も含めて、ほぼ納得したし同意できる。自分のあげた例が多義的な解釈の可能な作品であるということについてはまさにおっしゃる通り。
他方で自分と抵自さんの間には、読書や読解に対する根本的な感覚の違いがあるように思うので、もしよければ互いに不快にならない範囲で踏み込み、それを明らかにできたらと思う。
「作者の意図を気にする/しない」は結局のところ程度問題だよね、という形でお茶を濁してもいいんだけど、せっかくなので。
当然、あくまで抵自さんにお付き合いいただけるのであれば、ということだけども。
自分としては、抵自さんの展開した論理とその帰結に納得すると同時に、出所というかその論理形成に至る感覚、経験、リアリティーみたいなものに興味がある。だからまずは自分から今までの主張の前提を開陳したい。
細かいこともいろいろ考えたけど、枝葉は飛ばしてこちらの結論から。
A 「作者の意図を気にする読み方は底が浅いか否か」
→作者の意図を気にする/しない、以外にも読み方の深さを規定する要素はあるのでそれだけでは判断できない。
B 「作者の意図を気にするのは読書の大前提であるか否か」
→作品が作者から独立して存在できると考える場合には、「作者の意図」から切り離された形で読書という行為が成立しうる。したがって「大前提」とまでは言えない。
まずBについて。
抵自さんとの結論の違いは、おそらくコミュニケーションとしての読書や読解という行為が、
・作者から与えられる演繹的なものなのか
・独立した個々の読者による解釈の集積として、事後的に形成される共通理解による帰納的なものなのか
この両者のどちらに、その感覚を根差しているかによって発生しているんじゃないかと。
突飛な話に聞こえるかもだけど、自分は作品が読者の手にわたった時点で、それぞれが独立した別の物になると思ってる。なぜか。
文章ひとつ、書かれている言葉ひとつとっても、読者によって受ける印象、想起される光景、湧き上がる情動は異なる。これは単に言葉や表現の意味とその認識に一定の幅があるというだけでなく、読書によって付随して生まれる表象や心象の基となる経験や理解のための知識が、人それぞれで違うということでもある。
そして書き手はこの「人それぞれの違い」を直接コントロールすることはできないし、また読み手もその作品の基となる作者の意図を直接コントロールすることはできない。互いに知り合いとかでもなければ。
で、あるならば作者の意図によって生まれた作品、世に公開され流通した作品、読者のもとにわたった作品、全て書かれている文字は同じでも、それに付随してある各々の表象や心象について踏まえるならば、それぞれが別の状態にありそれぞれが独立していると考えることはできないだろうか。
もし仮にこのような考え方に基づけば、作者が、
・多義的な解釈をネガティブに捉える/ポジティブに捉える
・多義的な解釈を許容する/しない
上記にかかわらず、そもそも読者の解釈というものは、不可避的に「作者の意図」からは離れることにならないだろうか。
さらにOTZさんの 2021年10月12日 3:15 PM のコメントを踏まえるならば、作者の意図する物語上の登場人物と、読者の想起するそれは同一人物のように思えてもその内実は完全に別物である、と言い換えることもできる。
Aについて。
これについては完全ににわか知識なのでデタラメかもしれないが、例として宗教における経典や教典について、いくつかの思考実験をしてみたい。
1. 経典や教典の解釈というのは派閥、分派によって変わるが、その正当性は何によって証明されるのか
2. 書いた人がいるわけだから、その書き手もしくは書かせた神の意図に則った解釈が正当なのか
3. 派閥、分派によって変わる解釈とそれに紐づく生活様式、またそれらの歴史の積み重ねについて、どちらかが正当ならどちらかが邪道かつおふざけなのか
4. 正当でないほうの解釈やそれらによる社会は一概に浅く、唾棄すべきものかどうか
これらについてBで記述したこともあわせて自分は、
・読み手が書き手の意図を想定する過程で、その読み手の恣意性が入り込むのは構造上、また原理的に防ぎようがない
・作者の意図の不可知性、ということについても一考の余地がある
・もし解釈に正当性なるものがあるとしたら、それは特定の時代の特定集団における共通の理解や価値観を基盤とした暫定的な形でしか存在しえない
・正当/邪道、底の深い/浅い、これらは必ずしも対応するとは限らない
と、こういったことをつらつらと考えている。
例えば、論理的な正しさを信奉する集団がいたとして彼らにとっては、論理的に一貫していないところがある宗教やそれに携わる人々は不当であり底が浅いのだろうか。これは科学的根拠とか経済的合理性に言い換えてもいい。
最初の返信に書いた、
>そして読み手のそれぞれの解釈や考察が、底が浅いか深いか、それ以前の問題かどうかは、どのような価値体系かによって判断されるのではないかな。
というのもこれに関連したことで、だから「作者の意図を気にする/しない」は読み方の底の深い/浅いに関連のある一要素でしかないと考えてる。
話を戻すと読書体験によって物事に対する今までの見方考え方が変わり、行動も変わった、という人がいたとして、その人の読み方の奥深さが「作者の意図を気にする/しない」によってのみ判断されるべきだとは思わない。
サルトルに「実存は本質に先立つ」という言葉がある。
ここまでの話に絡めて言えば、「作者の意図」という作者自身の規定した作品の本質のようなものがあったとしても、ひとたび作品が読者にわたったならば、その波及に応じ読者によってそれは帰納的に再解釈、再定義されていくのが自然だと思っている。
繰り返しになるが、抵自さんの展開した論理にはほぼ納得してるし同意できる。特に、読むという行為には作者と読者の最低限のコミュニケーションが成立してる必要がある、のあたりとか。
しかしそれとは別に、やはり根底にある読解考察に対する姿勢というか感覚はけっこう違うんじゃないかなと。もっと言うと自分としては読者にとって何らかの感慨があれば別にコミュニケーションに失敗してもいいと思ってる。会話というわけでもなし、それもまた一興じゃないかと。
別のコメントにも書いたように作品の読み方について、ひいては作品受容のあり方については本当に自分は人それぞれだと思っている。だから抵自さんには、こうした認識に基づくこうした感覚で読解してるこじつけの過ぎる痛い奴もいるんだな、ってことを知ってもらえたら嬉しい。まあこれはちょっとした自虐だけど。
また逆に自分も抵自さんの読み方やその前提にあるものを知りたいとも思ってる。
念の為に言っておきたいのは、私は「作者の意図ばかりを気にする読み方は底が浅い」を否定しているだけで、「作者の意図を気にした読み方が深い」とは言っていないという事。大丈夫だと思うけど念の為。
よって
A 「作者の意図を気にする読み方は底が浅いか否か」
→作者の意図を気にする/しない、以外にも読み方の深さを規定する要素はあるのでそれだけでは判断できない。
この結論自体には同意します。
で、Bについてですが
〉
抵自さんとの結論の違いは、おそらくコミュニケーションとしての読書や読解という行為が、
・作者から与えられる演繹的なものなのか
・独立した個々の読者による解釈の集積として、事後的に形成される共通理解による帰納的なものなのか
この両者のどちらに、その感覚を根差しているかによって発生しているんじゃないかと。
〉
これについてはそういう事ではなく、「前提」という言葉の理解が違うだけではないかと思います。
追記に書きましたが、極論として、例えば、「猫が歩く」という文章を「犬が空を飛ぶ」という風に読む人が居たとして、そういう人に、そもそもテクストを与える意味はあるのか?(いいや、ない)という事を言いたいんですね。
“Bについて”、という部分でぽこぽこさんが語っているのは、あくまでも正常な人物の読解、つまり「前提」を踏まえている人物です。
確かに、心象まで含めた語句の意味を、作者と読者で厳密に共有するのは不可能です。でも、「父」とくれば「男性の親」、「氷」とくれば「冷たい」、こういう連想が正常である事は、正常な人間には同意できる訳です。そして文章におけるコミュニケーションは、こういう正常な連想の範囲内で行われます。
小説に限って言えば、“多くの小説家は振れ幅に対して寛容なので”、この正常な連想の範囲全てが、「作者の意図」に含まれる、乃至は含まれ得るものです。即ち、このような場合、全ての正常な解釈は、「作者の意図」に則ったものになります(読解は作者の意図を離れない)。
一方で、特殊な条件や定義も無しに、「父」は「女性の親」、「氷」が「熱い」と認識するような人とはコミュニケーションが取れません。それはもはや文章を読んでいない。故に「作者の意図」を気にしない読み方は、底が浅い以前の問題、と言える訳です。そういう読み方は、極論テクストを必要としない訳ですから。
で、これも繰り返しの内容になりますが、後者の読み方も、一種の冗談や、何らかの試みとしては否定しません。ですがそれは「前提」を踏まえてあるからこそで、正常な読み方と等価としては有り得ない、というのが私の認識です。
ぽこぽこさんの「前提」に対する認識が上記のようなもので、そのうえでの主張であったならば、こちらとしては特に反論はしません。もし「前提」に対して誤解があったならば、上記の説明でご納得いただけると幸いです。
必要ないかもだけど補足すると、私の言っている「作者」は
〉文章ひとつ、書かれている言葉ひとつとっても、読者によって受ける印象、想起される光景、湧き上がる情動は異なる。これは単に言葉や表現の意味とその認識に一定の幅があるというだけでなく、読書によって付随して生まれる表象や心象の基となる経験や理解のための知識が、人それぞれで違う
ということを踏まえて文章を書いているものとしている。
なので、正確に伝えたい時は“可能な限り語句を定義し、詳細に、論理的に、明確に述べようとする”。
人それぞれの違いを許容している時には、“敢えて多義的に解釈できるように”したり、描写を曖昧にしたり、想像の余地を残す。
(正常な読解はこうした作者の意図から離れない。)
がっつり応答いただいてどうもありがとう。
こういった話は好きで延々と語れてしまうし、きりがないのでこれで最後にしようと思う。
第一点。
まず、自分のコメントのBにおける「前提」に対する認識は、抵自さんの解説とは異なる。
> 「前提」に対する認識が上記のようなもので、そのうえでの主張
ではない、ということ。
第二点。
Bにおける抵自さん側の「前提」に対して誤解はないし、理解や納得した上で自分との差異について、それが何によってもたらされてるのかを明らかにしたい。抵自さんにとって幸いでなくて申し訳ないのだけど……。
議論の出発点として、次のことについてはお互いに共有できてると思う。すなわち、
書き手と読み手の普遍的な関係性、もしくは構造として、同じ言葉という同じ記号を用いるならば、そこには「おおむね」同じ意味の交換が発生し、結果としてコミュニケーションが成立するはずである。
しかし、ここから先の主張におそらく差異がある。つまり文章全般における言語的なコミュニケーションの成立に関して、
a. 言葉と文章、作品には、それらの正常な理解がまずあり、それこそが「前提」となる
b. 言葉と文章、作品には、書き手と読み手の各々の実存から立ち上ってくる、あくまで暫定的かつ流動性をもった共通理解があり、これらに依拠する。そして不変なのはこの構造のみだけで、確定的かつ不変の意味や認識は存在しない。
第一点の説明をするために、以下でまたいくつかの例をあげたい。
「猫が歩く」という文章を「犬が空を飛ぶ」という風に読んでしまうような、考察も読解も一切したことのない普段活字に触れることのないギャルがいたとして、現代の多くの学生と同じように義務教育で源氏物語を読む。
また、1000年先の遺伝子改変によって性別の有無が意味を持たなくなったり、気候変動による極端な寒冷化によって知覚の強制的な調整のために「氷」を「熱い」と認識するような人類が、同じく源氏物語を読む。
そして、現代の歴史研究・文学の専門家が源氏物語を読む。
上記の三者にとって抵自さんの言う、
正常な人間
正常な連想
正常な読み方
正常なコミュニケーション
これらの「正常」のあり方や想定はかなり異なるだろうけど、このギャルに、もしくは未来人にとって源氏物語を与えることにはまったく意味がないのか。また、この場合における言語的なコミュニケーションの成立/不成立に、はたして絶対的な正常/異常という明確な線引きをすることは可能なのか。
作者がありとあらゆる多義的解釈を差異際なく許容するのだとしたら、それは意味性の放棄、崩壊といって差し支えないし、そうである以上、作者は言葉や文章表現の意味、想定される読者の認識や理解の幅を、必ず一定内におさめるはず。
しかしながら未来人や現代人にとって作者が生きていない以上、作者が想定したであろう読者の認識、理解の幅は全て仮定でしかない。また作者にとっても、自身が死んだ後の読者の認識、理解の幅を知る術はないはず。
こうした双方にとっての不可知性を考えたときに、抵自さんの述べた様々な「正常さ」というのは原理的に確定不可能ではないだろうか。
もし仮に、こうしたケースの場合は「作者の意図」や作者の想定した「前提」のみが「正常」になる、という演繹的な立場をとれば何をもってして「正常」かを確定できるが、しかしそれは同時にこの三者の解釈は等価かどうかにかかわらず、すべて「正常ではない」ということになるし、正常かどうかはすべて程度問題としてしか推し量れなくなる。
ここまでの記述について抵自さんのコメントを無視しているように感じるかもしれないが、自分は一貫してそもそも作者の創作姿勢とは別の、構造上の問題について書いてる。
さらに例をあげると物語において、釣り目の金髪ツインテールの女の子が
「あんたなんか好きじゃないんだからね!」
と言ったら、現代日本に生きる、読み速のコメント欄に訪れるような人たちにとっては、特殊な条件や定義もなしに、そこで明示されない意味の把握を容易に行える。しかし、それが「正常」かどうか客観的かつ確定的に規定できるだろうか。自分はできないと思う。もっと言うと先ほどのギャルの読解とこの「お約束」に、はたから見た時の差異はたいしてないんじゃなかろうか。
加えて100年前の人々がこうした文章にこうした文脈が生まれうるなんてことは想定しようがないし、1000年後の未来人が同様の文脈をくみ取ってくれるかは我々にとっては観測のしようがない。
これは現代の言葉や文章表現の意味が過去と同じとは限らないし、未来においても同様であり、また単に時間軸の比較だけでなく、書き手と読み手の独立性がある限り、どこまでいっても両者のコミュニケーションの成立は暫定的かつ限定的なものでしかありえない、ということでもある。
こうした一連の過程において相対化され、基準としての絶対性を失った正常性においては、
コミュニケーションが正常に成立するならば、読解は作者の意図を離れない
読解が作者の意図を離れないならば、正常なコミュニケーションが成立する
この上記の「正常」が一貫性をもった形で定義されない限り、これは単なる循環論法、トートロジーとしてしか機能してないと思う。
自分の立場をまとめみる。
そもそも読解や考察、解釈における「前提、基礎、土台」となる言葉や文章の意味にあると思われている、核やイデア的なるものは個人や特定コミュニティ内の共同幻想にすぎず、それもまた書き手とそれぞれの読み手の実存から形成された暫定的な共通理解に基づく、程度や割合としてのコミュニケーションの成立/不成立であり、これらは常に揺らぎや重ね合わせの状態を持ちながらグラデーションのように存在するのみである
と、以上になる。
ある意味ではかなりラディカルな思想とも言えるし、ここまで書けばさすがに抵自さんとの主張の違いも明確になったんじゃないかな。
特にコミュニケーションの不成立の領域に対する評価として、
抵自さん ⇒ 邪道、無し、冗談、何らかの試み
自分 ⇒ 一興、有り、日常的な在り方で価値の反転の可能性も持つ
ここには、はっきりとした価値観の違いがある。
もし抵自さんのあげた一連の「正常」さに基づく読解や解釈における「前提」が、自分と同じく流動性をもった暫定的かつ限定的なものだとの認識であれば、ここまでの自分のコメントや問いかけは全て勘違いかつ、的外れなものだったと思う。ごめん。
最後に、抵自さんがなぜ読解における一連の「正常」にこだわるのか、その理由と根拠になる価値体系もしくは論理体系について、しつこいようだけどやはり自分は知りたい。
また、抵自さんのあげた一連の「正常」さがトートロジーによるものでないとするならば、抵自さんの中にある様々な個別具体例から、共通要素として抽出された、読解や考察、解釈における言葉や文章表現の理解の「正常」の定義を、非一貫性と恣意性を排した、構造や性質、傾向といった形で明示してもらえるとたいへん嬉しく思う。
まとめ辛かったので、気になる箇所に←●を付け、その後に所感を述べました。
長くてごめん。
〉議論の出発点として、次のことについてはお互いに共有できてると思う。すなわち、
〉書き手と読み手の普遍的な関係性、もしくは構造として、同じ言葉という同じ記号を用いるならば、そこには「おおむね」同じ意味の交換が発生し、結果としてコミュニケーションが成立するはずである。←●コミュニケーションが成立するには、(概ねではなく)同じ意味の交換が発生しなければならない。言葉や記号の意味(特に心象)には、全体として揺らぎ、振れ幅が存在するが、中核となる意味は完全に共有されている必要があるし、それは客観的にも可能な事である。例えば、「父」という単語の心象は、個々人の経験によって大きな振れ幅があり得るが、「男性の親」という点においては、万人に共通しているし、していなければその言葉を理解している事にはならない。これは公理(証明不要の命題)として要請されている。仮にこれを認めないのであれば、一般常識の範囲外の事柄、議論になるので、これを認めない(それについて語る意味が無い)し、今現在、自分たちが誰かとコミュニケーションを取れている事実に説明が付かない。
〉しかし、ここから先の主張におそらく差異がある。つまり文章全般における言語的なコミュニケーションの成立に関して、
〉a. 言葉と文章、作品には、それらの正常な理解がまずあり、それこそが「前提」となる
〉b. 言葉と文章、作品には、書き手と読み手の各々の実存から立ち上ってくる、あくまで暫定的かつ流動性をもった共通理解があり、これらに依拠する。←●何が依拠するのか? 言葉が抜けていると思われる。それか「言葉と文章、作品は」「これらに依拠する」という文意であるか。そうであるとすれば、依拠する点は認めるが、「あくまで暫定的かつ流動性をもった共通理解に“のみ”」依拠すると言うならば、それは言い過ぎである。言葉には経験(実存)に依拠しない、抽象(本質)から成る部分が存在し、必然的にこれは普遍性を持つ。言葉の意味と理解は、この普遍性にも依っている。
〉そして不変なのはこの構造のみだけで、確定的かつ不変の意味や認識は存在しない。←●上記の理由により、不変の意味や認識(普遍性・普遍性の認識)は存在する。また、提示されている構造(書き手と読み手の各々の実存から立ち上ってくる、あくまで暫定的かつ流動性をもった共通理解)以外にも、論理構造というものがある。「○○は××である」といった言明や三段論法などは、少なくとも人類に共通する意味の規定であり認識である。論理構造は、作者と読者に一定の共通理解を与えるものとして機能する。
〉第一点の説明をするために、以下でまたいくつかの例をあげたい。
〉「猫が歩く」という文章を「犬が空を飛ぶ」という風に読んでしまうような、考察も読解も一切したことのない普段活字に触れることのないギャルがいたとして、現代の多くの学生と同じように義務教育で源氏物語を読む。
〉また、1000年先の遺伝子改変によって性別の有無が意味を持たなくなったり、気候変動による極端な寒冷化によって知覚の強制的な調整のために「氷」を「熱い」と認識するような人類が、同じく源氏物語を読む。
〉そして、現代の歴史研究・文学の専門家が源氏物語を読む。
〉上記の三者にとって抵自さんの言う、
〉正常な人間
正常な連想
正常な読み方
正常なコミュニケーション
←●「正常」とは、ある基準に合致している事。例えば読書における「正常なコミュニケーション」とは、作者の意図と読者の読解が合致している状態。
〉これらの「正常」のあり方や想定はかなり異なるだろうけど、このギャルに、もしくは未来人にとって源氏物語を与えることにはまったく意味がないのか。また、この場合における言語的なコミュニケーションの成立/不成立に、はたして絶対的な正常/異常という明確な線引きをすることは可能なのか。←●文章のコミュニケーションは作者と読者で行われ、それは「作者の意図」を「読者が読解する」という形で行われる。まずギャルの例では、「作者の意図」を読解できていないので、コミュニケーションは成立していない。次に未来人の例だが、その未来人が過去の人間の認識を理解しているのなら、コミュニケーションに問題は無いと思われる(……“一方で、特殊な条件や定義も無しに、「父」は「女性の親」、「氷」が「熱い」と認識するような人とはコミュニケーションが取れません”……。逆を言えば、特殊な条件や定義があるなら、「父」を「女性の親」、「氷」を「熱い」と読解する事に問題は無い。そして特殊な条件下にある人物が読解するのなら、その特殊な条件を取り去れば読解に問題は無い)。或いは、その未来人が過去の人間の認識を理解していないのなら、コミュニケーションは成立しないだろう。最後に、現代の歴史研究・文学の専門家の例だが、そもそも古典というのは、明確に意味が判明しているものではない。源氏物語はどの程度か知らないが、例えば論語では、或る文章に複数の解釈があって、そこには定説や有力な説というのはあっても、正しいと保証されているような解釈が無い、というような文章も含まれている。またそもそも古典研究の目的は、古典(大昔の作者)とのコミュニケーションを成立できるように、解読したり、或る解釈を保証する証拠を探したりするものである。つまり、正常なコミュニケーション、コミュニケーションの成立を目的とした研究分野である(正常な読解が保証されないか、され難い分野)。
〉作者がありとあらゆる多義的解釈を差異際なく許容するのだとしたら、それは意味性の放棄、崩壊といって差し支えないし、そうである以上、作者は言葉や文章表現の意味、想定される読者の認識や理解の幅を、必ず一定内におさめるはず。
〉しかしながら未来人や現代人にとって作者が生きていない以上、作者が想定したであろう読者の認識、理解の幅は全て仮定でしかない。また作者にとっても、自身が死んだ後の読者の認識、理解の幅を知る術はないはず。
〉こうした双方にとっての不可知性を考えたときに、抵自さんの述べた様々な「正常さ」というのは原理的に確定不可能ではないだろうか。
〉もし仮に、こうしたケースの場合は「作者の意図」や作者の想定した「前提」のみが「正常」になる、という演繹的な立場をとれば何をもってして「正常」かを確定できるが、しかしそれは同時にこの三者の解釈は等価かどうかにかかわらず、すべて「正常ではない」ということになるし、正常かどうかはすべて程度問題としてしか推し量れなくなる。
←●「犬」という単語は、そこに普遍的存在としての犬という意味を持っている。そもそも言葉とは(記号とは)、そういう普遍的性質があるからこそ成立するものである。「犬」という単語を読んだ時、Aさんはシェパードを、Bさんは柴犬を想像するかも知れない。しかし、そこには犬という普遍的な存在に対しての理解がある。それ故に、AさんはBさんに対して、お前の想像しているものは「犬」ではないと言ったりしないし、Bさんも同様である。
また、こうした普遍的存在があるからこそ、「犬」と「dog」が同じ意味を持つという理解を得る事が出来る。
こうした言葉の持つ固有の普遍性を理解すれば、過去の言葉であろうと大筋を把握する事は出来る。また、大筋の意味を把握すれば、必然、作者の意図を大筋において把握できている事になる。古典の微妙なニュアンスに関しては、資料が豊かであれば想定する事も可能。少なければ少ないほど困難。(古典は正常な読解が難しい分野)
←●文章の読解には客観性がある。つまり客観的に見て正しい読解と正しくない読解がある。これは論理構造と言葉の普遍的性質に立脚する。意図を伝えるという点について、作者はこれを誤りさえしなければ、つまり客観的に見て意味不明な文章を書きさえしなければ(文章単体としては意味不明でも、作品全体の意図から見て筋が通っていれば問題は無い。例:『裸のランチ』)、その文章には正常に読み解く可能性が常に存在するので、後は読者の読解の問題である。よって、その文章が指令書のように、具体的な読者の具体的な行動を要求するようなものでない限り、作者は読者の認識を知る必要は無い(知りたいとは思うだろうが)。作者の義務は果たされており、後は読者が間違うか否かが有るだけである。読者が正常な読解をすればコミュニケーションは成立、できなければ不成立。
〉ここまでの記述について抵自さんのコメントを無視しているように感じるかもしれないが、自分は一貫してそもそも作者の創作姿勢とは別の、構造上の問題について書いてる。
〉さらに例をあげると物語において、釣り目の金髪ツインテールの女の子が
「あんたなんか好きじゃないんだからね!」
と言ったら、現代日本に生きる、読み速のコメント欄に訪れるような人たちにとっては、特殊な条件や定義もなしに、そこで明示されない意味の把握を容易に行える。しかし、それが「正常」かどうか客観的かつ確定的に規定できるだろうか。自分はできないと思う。もっと言うと先ほどのギャルの読解とこの「お約束」に、はたから見た時の差異はたいしてないんじゃなかろうか。
←●「あんたなんか好きじゃないんだからね!」というセリフを、ツンデレの定型句として捉えるのなら、それは文化的に限定的な範囲でしかも比較的に新しい部類に入るもの。つまり、文化的に特殊な条件を把握していなければ、「あんたなんか好きじゃないんだからね!」の意味を把握する事は出来ない。
そして、物語において「あんたなんか好きじゃないんだからね!」というセリフが、照れ隠しという意味を正常に持つためには、その物語の描写において、そう読み解けるだけの情報が提示されている筈であるし、そういう情報が提示されていないのであれば(正常な読解に必要な情報が提示されていないのであれば)、駄作の誹りを受ける事は必定だろう。それは、作者の側で、コミュニケーションを成立させるだけの十分な条件を用意できていないからである。
〉加えて100年前の人々がこうした文章にこうした文脈が生まれうるなんてことは想定しようがないし、1000年後の未来人が同様の文脈をくみ取ってくれるかは我々にとっては観測のしようがない。
これは現代の言葉や文章表現の意味が過去と同じとは限らないし、未来においても同様であり、また単に時間軸の比較だけでなく、書き手と読み手の独立性がある限り、どこまでいっても両者のコミュニケーションの成立は暫定的かつ限定的なものでしかありえない、ということでもある。
←●100年後に読まれる事を想定した文章(多くの人、時代に読まれる事を想定した文章)は、それなりの工夫が為されるものであるし(例えば星新一。固有名詞を可能な限り排しているという工夫は有名)、今を生きる人間が、100年後の文脈を想定する必要は無い。読解は読者の側の仕事である。
〉こうした一連の過程において相対化され、基準としての絶対性を失った正常性においては、
←●「正常」とは、ある基準に合致している事。「基準としての絶対性を失った正常性」というのは意味不明。「相対的に観測できない身長」とか言っているようなもの。「正常」が「基準」なのではなく、「基準に合致している」事が「正常」。文章のコミュニケーションにおける基準は「作者の意図」。言葉の普遍性や論理構造がコミュニケーションの成立を担保する。
〉コミュニケーションが正常に成立するならば、読解は作者の意図を離れない
読解が作者の意図を離れないならば、正常なコミュニケーションが成立する
〉この上記の「正常」が一貫性をもった形で定義されない限り、これは単なる循環論法、トートロジーとしてしか機能してないと思う。←●「正常」とは、ある基準に合致している事。トートロジーとしてしか機能してないのは、トートロジーになるような文章を書いているから。「読書におけるコミュニケーション」の「正常さ」は、「作者の意図と読者の読解が合致している」事と定義されている。この点については、「作者の意図と読者の読解が合致が成立する」乃至「し得る」のなら、その合致が暫定的であろうが、絶対的であろうが、意味は通る。仮に暫定的にも絶対的にも「作者の意図と読者の読解が合致が成立し得ない」のなら、そもそもコミュニケーションを取る事自体、不可能という事になってしまう。
以上です。
最後の方に誤字発見。二箇所ある
〉仮に暫定的にも絶対的にも「作者の意図と読者の読解が合致が成立し得ない」のなら、
は
仮に暫定的にも絶対的にも「作者の意図と読者の読解の合致が成立し得ない」のなら、
です。
ついでに補足すると、
〉言葉には経験(実存)に依拠しない、抽象(本質)から成る部分が存在し、必然的にこれは普遍性を持つ。言葉の意味と理解は、この普遍性にも依っている。
これはつまり例えば、「父」という単語における「男性の親」という意味。「父」という単語に持つ印象は、「父」との体験などで人によって差が生じるけど、「男性の親」という意味には普遍性がある。
〉こうした普遍的存在があるからこそ、「犬」と「dog」が同じ意味を持つという理解を得る事が出来る。
また、「犬でないもの」に対して、「犬」のような、といった形容が出来るのも、普遍性、普遍的性質のお陰。個別的・具体的な経験や認識でしか読解が成立しないのなら、あらゆる比喩はそもそも原理的に不可能になる。
ありがとう!いや、めっちゃありがとう!!
最後って言ったんだけど、肯定的な面で山ほどある言及したい箇所や訂正したい箇所は割愛しつつ、感想を。
根底にある姿勢の違いと書いたけど、実際には実存→本質、本質→実存というようなベクトルの違いだったのかなと。真逆故に、行くところまで行ってはじめて理解できたというか。抵自さんの一連のコメントにおける「正常」の基準、「作者の意図」が何なのか、やっと知ることができた。
細かい字面だけを見れば一部同意しきれないところはあるけど、それはわりとどうでもよくて。
完全に納得したし、どのような価値に立脚するのか、というコアの部分で非常に共感できたから。矛盾しているように思えるかもしれないけど、互いの差異を明確にするために飛ばし気味&盛り気味に記述した箇所もそれなりにあるんだ。
なんにせよ、抵自さんの論理体系、価値体系、どちらも見事に示してもらえてとてもよかった。
自分語りになってしまうけど、文章読むより音楽聴いてる時間のほうが圧倒的に長い人間なので。馴染みのある思考領域に恣意的に引き寄せていたのはこちらの方だったように思う。
そして作品の媒体や形式、もしくは対話の形態によらず、一般受け(ポピュラリティー)と普遍性との対比において、特に後者の深いところで意思疎通の出来る相手というのは本当に希少かつ貴重なので……。というか文字でのやり取りにおいては抵自さんが初めてだったと思う。
これについてはいくら強調しても言い過ぎにはならないと思うし、抵自さんとのやり取りはやはりすごく楽しかったです。
あと何のこっちゃって感じかもだけど、本当にごめんなさい。いろいろと申し訳なかった。謝ります。今回の議論はとても面白かったけど、これだけはどうしても言いたくて……。
そしてあらためてお礼を。
こちらの問いかけに真摯に、また気合の入った長文で応答してくれてどうもありがとう。知りたい事はすべて知れたし、ずっと引っかかっていた疑問も氷解しました。
抵自さんにとってはひたすらに骨折り損で申し訳なかったけど、自分には得るものが沢山ありました。
感謝します。
ノシ
これだから読み速のコメント欄は読み飛ばせない
なんか延びてる。そもそも作者の意図なんかどうでもいいので(場合による)、自分で好き勝手に解釈して読む派。教科書ですら信用せず、時には間違いとか指摘しちゃう系の痛い子なのでしょうがないね。
作者(小説家)の意図を理解しようとしなくてもいいけど。伝わらないには2パターンあるだろうな。
「読者側に理解する能力がない」のが一つ。「作者が意図をメッセージとしてではなく体感させる表現力がない」パターン。作品を介した小説家と読者の関係は「意味(メッセージ)のやり取り」とは違うよな。正しい理解はされない前提で書くものだと思うけど。とにかく「行間を読ませない文章」というのが小説においても良い文章なんではないかなーw
>「作者の意図」を離れた読み方なんてしたら、底が浅い以前の問題
>作者の意図を気にするのは読書の大前提
>逆にそれをポジティブに捉える作者はむしろ振れ幅を利用して、敢えて多義的に解釈できるようにする。そういう文章に対して読者が勝手な解釈をキめるのは、作者の意図に則った事である。
>作者の意図を離れた読み方をするにしても、それはあくまでも邪道、おふざけのようなものであり、前提として作者の意図を最低限把握(コミュニケーションが成立)していなければならない
>(正常な読解はこうした作者の意図から離れない。)
以上のような主張からは、
【本来作者しか知り得ないはずの「作者の意図」を明確な正解として知る手段がある】
という大前提が見えるわけですが、
作者自らが明かすという特殊な例を除いて、
「自分の読み方/解釈」と「作者の意図」がイコールであることをどうやって担保するんでしょうか。
「きちんと正しく読み込めば自然と『作者の意図』が見えてくる」とか?
銀天さんへ
このコメントを書こうかどうか迷ったのですが、どうしても気になってしまったので書きます。すいません。
そしてこれは自分の純度100%の自己満足でもあるので、基本的に無視してくださって構いません。
まず結論から。
銀天さんの問い全般に対する抵自さんの答えは、おそらくこうです。
[
何をもってしてそれが完璧に「作者の意図」であり正解であると言えるのか。
これについて考える意味はないので、
【「作者の意図」を知る手段はある】
ということを互いに前提として共有できるならば、議論する価値を認める。
]
以下に詳細を書きます。
銀天さんの問いを突き詰めて考えるならば、それは不可知論の領域に行きつくと思います。
不可知論とはざっくり言うと、
「結局のところおまえの言っていることは、すべておまえの妄想かもしれないだろ」
という主張です。
この主張に対して、論理的に真っ向からの反論は成立しえない、というのが哲学史的な立場です。
要は上記の主張にどのような反論をしても、同じ文言を永延に繰り返すことでそれを覆し続けることができる、ということです。
これを一般的には「屁理屈」といい、哲学的には「無限後退」といいます。
(後者についてはちょっと自信がないです。厳密に言うと違うかも……)
無限後退には他にも次のようなものもあります。
「差別主義者を差別する人は、等しく差別主義者だ」
これらを踏まえると、銀天さんのコメント内にある、
> 【本来作者しか知り得ないはずの「作者の意図」を明確な正解として知る手段がある】
これを否(偽)とする、言い換えると、「作者の意図」は作者しか知り得ない、とするのが不可知論です。
そして自分もこれと同じことを抵自さんに問うています。
(それが屁理屈によるものだとは自分も最初からわかってたわけではなく、一連のやり取りを終えてからようやく気づきましたが……)
このような「論理的に真っ向からの反論は成立しえない」事柄についてもう一つ書きます。
運命論というものがあり、それをざっくり説明すると、
「すべての物事には因果関係があり、すべての結果はあらかじめ確定している。したがって自らの意志によって何かを決定することはできない。」
になります。
これについても、
「いや、そうは言ってもおれは自分で考えて自分のこと決めてんだけど」
に対して、
「それはありとあらゆることが、おまえをそう考えさせるような原因を、最初からもっていたからだ」
となります。
運命論に従えば、人に自由意志は存在しないし、それと同時に人の全ての行動に責任を問えません。
自分自身の意志で考えて行動する、ということが存在しないのであれば、どのような行動の結果もその人のせいではない。
といった帰結になります。
卑近な話題で言えば「親ガチャ」なんかもこれに近いですね。
哲学史において、こうした問題についてはすでにカントによって扱われています。
1.「霊魂の不死」
2.「宇宙の無限」
3.「神の存在」
4.「人間の自由」
カントはこの4つを、論理的には証明不可能な問題(証明しようとすると矛盾が生じる)、二律背反(アンチノミー)としました。
自分の不勉強もあり詳細については省きますが、例えば無限後退はこのうちの 2.「宇宙の無限」 の類型です。
何が言いたいのか、つまり「論理的に証明不可能なこと」にはいくつかのパターンがあり、すでに昔からずっと考えられてきたよ、ということです。
ここまでを踏まえた上でもう一度、銀天さんの問い、もしくは自分の問いについて考えます。
【本来作者しか知り得ないはずの「作者の意図」を、読者は明確な正解として知る手段はないのではないか】(一部改変)
これに対する抵自さんの答えは、以下のようになります。
(あくまでこれは、一連のやり取りを経た上での自分側の理解において、という留保付きですが)
それについてはそもそも反論、反証不可能だし、考える意味がないので、
【「作者の意図」を知る手段はある】
ということを互いに前提として共有できるならば、議論する価値を認める
これだけを聞くと肩透かしをくらったように感じるかもしれませんが、これも実は哲学の伝統的な立場によるものです。
哲学においては、この手の論理的に証明不可能な問題にたいしては、おおむね次のようなアプローチをとります。
ものすごく大雑把ですが例としては、
[
・不可知論について
私達は、コミュニケーションが成立し、日々意思の疎通ができていると思ってるし、感じている。また現実として社会も歴史もこれによって成立している。
⇒ そうであるならば、コミュニケーションの成立とはいったいどのようなものか。
・運命論について
私達は、一人一人が個別の独立した存在で、それぞれに固有の意識をもち自らで意思決定ができると思ってるし、感じている。また現実として社会も歴史もこれによって成立している。
⇒ そうであるならば、一人一人の独立した個人としての成立とは、いったいどのようなものか。
]
と、このように ⇒ より前で書かれたことを前提として、 ⇒ より後に書かれていることを考えていく、という手法をとることで議論や思考の前提、土台を整えます。このことを抵自さんは、公理(⇒より前で書かれた前提)が要請される、と表現している。
今回の議論や論点にあわせて先ほどの[]内前段の ⇒ より前の部分、前提(公理)を改変すると、
読者は作者とのコミュニケーションが成立している感じている。そして現実にそうなっているから読書という行為は今まで成立してきた。
≒
読者は「作者の意図」を知る手段はある、と考えてるし感じてる。そして現実にそうなっているから読書という行為は今まで成立してきた。
と、おそらくこういった形になります。そして ⇒ より後の命題の部分、
そうであるならば読者と作者のコミュニケーションの成立とは、いったいどのようなものか
そうであるならば読者が作者の意図を知りうるという状態は、いったいどのようなものか
この命題の結論については、抵自さんの 2021年10月14日 12:53 AM のコメントに詳細があります。端折りまくって書くと、
[
言葉には普遍性をもった意味があり、また文章には普遍性をもった論理的な構造がある。
作者がこれに則る限り、読者もこれを読解することができる。
したがって読者は作者の意図を知ることが出来る。
]
そしてこれについては、自分も一部をのぞき賛同してます。
話を少し戻しますが抵自さんのほとんどの主張の根底にはさきほど説明したような公理があります。そして公理そのものについては問わない。それがわかれば抵自さんの書かれていることはなんとなく把握できるんじゃないかと思います。
以上が、銀天さんの問いについての自分なりの見解になります。
次に自分の立場と主張を詳しく書くことで、抵自さんの立場との違いを自分なりに整理し、より明確にします。
例によってひたすらに長いので、本当に読んでいただかなくても大丈夫です……。また、銀天さんの一連の問いへの直接的な関連はありません。
しかしながら、さきほど肩透かしをくらったところについて、幾ばくかの手ごたえを得ることができるんじゃないか、と個人的には思います。
銀天さんのコメントに則って自分の立場を書くならば、
「自分の読み方/解釈」と「作者の意図」がイコールに“ならない”こと
これこそが重要だ
と、このようになります。もし仮に、
「自分の読み方/解釈」と「作者の意図」がイコールになる、または、
「数多いる読者の読み方/解釈」と「作者の意図」がイコールになる
という状態があった場合、数多いるそれぞれの読者と作者の、
何が結論なのか
何が重要なのか
という思考に明確な違いを観測できない、ということになります。
だからこそ人それぞれの読み方/解釈が違うことが大事で、その違いこそがその人の意識をその人たらしめている、という理屈です。
ファスト映画ってありますよね。
あれって要は、その作品の重要な箇所だけを”拾い”、その他は”捨てる”、という切り貼り作業を経た、ある種の要約のようなもの、とも言えるわけです。
それを支える理屈や価値観とは、
作品における要約に正解があるのであれば、それを把握さえできれば他の部分は重要視しないしいらない、
というものなんです。
そして抵自さんの主張した論理、
[
主観的な程度問題などではなく、人類史上において普遍的であるという基準において、言葉の意味に核があるように、文章にも核があり、その総体である小説(作品)にも核がある。
それらが把握できれば、コミュニケーションは成立だし、把握できなければ不成立である。
]
この理屈においては、ファスト映画のようなものは否定できないどころかむしろ肯定されます。
※実態がどうか、倫理面でどうかのいっさいを横において
ファスト映画だけでなく、まとめブログ、YouTuberの配信の切り抜き動画、「小説家になろう」のランキング、構造としては全て同じです。自身では価値の重み付けの判断をしない、正解があるのなら最初からそれを選ぶ。
抵自さんのように人類史上における普遍性を価値とし基準とする、といった場合、原理的にそれは、
支持した人の数 × 支持された時間 = 普遍性としての強度
といった形で完全に定量化できます。この時、一般と普遍はおおむね一致する。
そして詳細は省きますが、おそらく最近の漫画アプリやtiktokも機械学習やアルゴリズムをもちいて、この数と時間の理屈および価値観をその設計に落とし込んでいます。
ある意味ではやはり抵自さんの主張したように現実がどんどん向かっていると言える。
しかし自分の実感や現実の認識としてはそうではないんです。一般と普遍は一致するとは限らない。
普遍性があるとされている古典文学、哲学書、音楽作品、いずれも現代においてほとんどの人に読まれたり聴かれているわけではない。
だから自分としては、この自身の違和感や抵抗感を出発点として、自分の立場、自分の主張する価値を支える理屈を組み立てる必要がある。それが以下です。
1.公理そのものについて問う、もしくは公理そのものが要請される理由、原因を考える
2.不可知論も運命論も完全に捨て置くことはせず、考慮する
3.読者による作者の意図の把握(読者と作者のコミュニケーション)の成立と不成立を、等価としてみる
1.について
公理そのものについて一切問わない、というのは有り体に言って以下のような姿勢であり立場です。単にそれに納得できないので屁理屈をこねたい、というわけです。
Q 1+1 が 2 になるのはなぜか
A それが普遍的だから。だってみんな1+1=2だという前提で生きてるし、現実の歴史もそうでしょう?
これについて自分の疑問がトートロジー的ではないのか、結果論ではないのか。というものです。
それが抵自さんと一連のやり取りで自分が挙げた、1000年後の人類の例えです。
・性別についての意味が喪失する可能性
・熱さや寒さといった意味が反転する可能性
・彼らが10万年存続したならば、私達が「普通」でなく「特殊」になる可能性
(→これについては暗にそうした意味を持たせたつもりでしたが、明示はしませんでした)
これらの自分の問いに対する抵自さんの立場は、
あくまで人類史上における普遍性を基準として考え、逸脱する領域については意味がないので棄却する。
屁理屈には付き合わない。公理の外側については認めない。
というものでした。やはり一貫してますね。
しかし自分は、よく泥だんごの話などでよくあがる1+1が2にならない可能性(泥だんごを合体させると個数としては2にならない)についても捨て置きません。
前半で述べた「論理的には証明不可能な問題」におけるいくつかの公理についてですが、カントはもちろんのこと、それ以降の哲学者たちも、この公理そのものについては様々なアプローチを試みています。
例えば、公理について懐疑的か、独断的か、その姿勢の違いは何によってもたらされるのか、それぞれを支える論理はどのようなものか、といった分析を行ったりする。
特に近代以降においては、公理そのものについての疑義を見出していくような思想の発展があります。
・私達は日々コミュニケーションが成立していると感じているが、はたしてそれは本当か
・私達は一人一人が個別に独立した存在で、自由意志をもち自己決定ができる思っているが、はたしてそれは本当か
といったような。
そして近代以降の作品の受け手の一人一人が、こうしたいわゆるポストモダン系の哲学とその思想を知らなくても、様々な創作物がすでにこうした思想に影響を受けていますし、それは作品の受け手もまた同様です。
(ベタですが攻殻機動隊シリーズ、マトリックスなど)
自分にとってこうした事例は、既存の公理が公理たりえない可能性、基準が基準として機能しない可能性についての思考が、現代社会の諸問題にたいして非常にアクチュアル(実際的)であることの証でもある。
また公理そのものについて考えられずにいられない、というのは、それが屁理屈であれなんであれ、もし論理を追求する者ならば誰でもぶち当たる問題だから、とも言えます。
ただ、この読み速のコメント欄においても既存の公理そのものについて問うタイプの人と、そうでない人(既存の公理を絶対是とする)タイプの人がいるので、そこを見誤ると徹底的に噛み合わないなあ、という印象を受けます。
2.について
不可知論も運命論も完全に捨て置かない状態で、その先のことを思考するためにはどうしたらいいか。
自分の手法としては、すべてに対してあくまで、暫定的、仮定として、流動的な、といった留保の上で不確定な事柄だとして、その一時性を強調することで、人類史上における普遍性を基準とした公理より外側にある可能性についても考慮します。
例としてあげた1000年後の人類の性別のように、あるものが未来永劫そうであり続けると確定しているわけではない、ということを頭の片隅におきます。
3.について
1.および2.を踏まえた上で自身の立場をまとめると
[
言葉の意味に核があり、文章にも核があり、その総体である小説(作品)にも核がある。
しかしながら、これらが共通理解の基礎となり普遍性をもつ、という認識は、あくまで個人や特定集団における暫定的かつ限定的な、不確定な流動性をもった妄想や共同幻想のようなものであり、主観的な程度問題でしかない。
したがって読者と作者のコミュニケーションの成立/不成立は、作品内の様々な要素において別個に、曖昧な揺らぎをもった状態で存在する。
よって、読者と作者のコミュニケーションの成立/不成立に明確な線引きはできず、別個に存在するそれらの違いこそが、読者と作者の、あるいは読者ごとの「その人の意識がその人固有のものである」という個別性を担保する。
ゆえに読者と作者のコミュニケーションの成立/不成立は等価である。
]
一方で抵自さんの立場は、
[
主観的な程度問題などではなく、人類史上において普遍的であるという基準において、言葉の意味に核があるように、文章にも核があり、その総体である小説(作品)にも核がある。
それらが把握できれば、コミュニケーションは成立だし、把握できなければ不成立である。
よって、読者と作者のコミュニケーションの成立/不成立に明確な線引きは可能で、コミュニケーションの不成立は「邪道、無し、冗談、何らかの試み、おふざけ」であり、成立と不成立が等価であることはありえない。
]
となります。
―――― まとめ ――――
自分の一番主張したいことは、
小説の読解や考察は数学とは違う。人によって1+1=2にならない。それこそが大事だ。
というものです。
もし人類史上における普遍性を絶対是とするなら、1+1=2になることが重要で他は重要でない、となる。
そういった理屈と価値観”のみ”に全てが飲み込まれることに抗いたい
何を捨て、何を拾うか、これにその人をその人たらしめている個別性が宿ってほしい
言語における記号と意味の多様性が失われてほしくない
そうした要請をもって、自分自身の公理(のようなもの)を定め、論理を組み立ててみました。
とは言え、自分もまた「論理的には証明不可能なこと」を前提として、自身の主張を展開してます。
最後になります。
めちゃくちゃ長くなりましたが、銀天さんのコメントにある問いは、それだけクリティカルな領域に踏み込んだものだったと思います。しかしながらそのおかげで銀天さんのコメントは、抵自さんとのやり取り同様に、自身が様々なことを考えるきっかけになりました。
どうもありがとうございます。
正直言ってドン引きなされてると思いますが……。
いつもここまで全力で考えて長文コメントをしているわけではないので、もし次の機会などがあれば、銀天さんの考えや意見等を知ることができれば嬉しく思います。
長文、乱文、大変失礼しました。
思考実験とかと同じで遊びよ
「描いた絵、わざわざバラバラにして組み立て直すとか意味なさすぎワロタ」って、パズルやってる人に言うようなモン