web小説の評論家モドキ「批評しないとその作品で他の人が時間を無駄にするかもしれない」
web小説の評論家モドキの言説で笑ったのは、『批評しないとその作品で他の人が時間を無駄にするかもしれないから』というもの。
— 堅洲 斗支夜/Toshiya Kadas (@kadas_blue) November 28, 2021
そんなのは単純に『合う・合わない』の話だろうに、やっぱりこういう人は頭が残念なんだなと。

みんなの反応
クリティカルヒットですねw
— 堅洲 斗支夜/Toshiya Kadas (@kadas_blue) November 28, 2021
いやーほんとに。
— 堅洲 斗支夜/Toshiya Kadas (@kadas_blue) November 28, 2021
お金出してるんならまだわかりますが、合わなかったら立ち去ればいいだけですもんね。
困った事にそんな人が一定数いるようです。
— 堅洲 斗支夜/Toshiya Kadas (@kadas_blue) November 28, 2021
自分にも無理です。
— 堅洲 斗支夜/Toshiya Kadas (@kadas_blue) November 28, 2021
無料のweb小説読みまくってるだけなのにこんな事言えるなんてすごいなぁと思いましたね。
まあ、あかんですね。
— 堅洲 斗支夜/Toshiya Kadas (@kadas_blue) November 28, 2021
いつの間にか批評家になっちゃってるっぽいですが、そんなに自信があるならココナラあたりで仕事にしてみればいいのにと思います。
— 堅洲 斗支夜/Toshiya Kadas (@kadas_blue) November 28, 2021
ほんとそんな感じですね。
— 堅洲 斗支夜/Toshiya Kadas (@kadas_blue) November 28, 2021

ある意味熱心な読者やね
ディスカッション
コメント一覧
まぁた架空の評論家でお人形遊びか
“批評家になろう!”
小説家より非生産的過ぎるやろ。
批評家を批評するのはもっと非生産的だけどね。
ほう?
批評者が間違ってると思うなら書いた小説で殴ればいいんだよ。批評はそうだなと思う部分は聞けばいいし、アホかと思う部分はスルーすればいい。全部聞き入れる必要も封殺する必要もない、言いたいヤツには言いたいだけ言わせておけばいい。
批判が気に入らないからって同じレベルの人格批判まで落ちて争うのは時間の無駄でしょ。
臭い公衆便所に臭いということすら許されないこんな世の中じゃ
ポイズン
文芸批評にも技術があり、方法論があり、作品と同じように批評そのものも衆目に晒され評価される
……ということを理解せず、単なるお気持ち表明に終始してる批評ゴッコの多いことよ
読者として、読みの拙劣さを自ら曝け出して恥ずかしくないのかな? といつも思う
逆にむしろ評価評論を大層に考えすぎ
批判や感想なんて誰でもいうし、評論なんて、そういうのの延長上にあるものでしかないと思う
よく単なる批判じゃなく建設的な批判をとか、いう人いるけど、批判に建設的もクソもないものだと思うし、そこにあるのは批判する人の主観であって、客観的な事実では決してないと
そこをわきまえた上で批判というのはすべきであって、自分はわかってる、他の人間はわかってないとか言い出す人間の批判や評論は、正直恥ずかしいと思う
評論家にモドキなんていないし、真の評論家なんてものもいない
ただ、自分の考えや感じ方とかそういうものがあるだけだと思う
>批判や感想なんて誰でもいうし、評論なんて、そういうのの延長上にあるものでしかないと思う
それは概ね同意だが、その程度のものだからこそ
『批評しないとその作品を読んで他の人が時間を無駄にするかもしれないから』
など意識的・積極的に読者を減らそうとまでするスタンスは批評の範疇超えてるだろって話なだけなのでは?
純粋な感想で結果的に他の潜在読者を減らすのは仕方ないが、意識的に他者に読まないことまで勧めているというなら個人的感想の延長ではなく妨害工作なのだから、そちらが主目的ならそのモドキで合ってると思うが
ついでに言えば、感想は読んで字のごとく感じたこと・思ったことであり、あえて批評と題する場合には感想の延長ではよろしくないけどね。
批評・批判の批は比較検討や分析判断を意味するもので、条約の批准もこの字を使うように知性や責任を要する時に使われてきたもの。自分の個人的な嗜好と明確に区別し、他の作品との比較などで客観的に評価しようとしていないと批評とは言えないから、感想とはまた別かな。あえて批評と題するなら、批評者も同じく否定されるリスクと責任を伴う。
自分は客観的に評価するということ自体がナンセンスだと思うんだけどなぁ
物事の評価は個人個人で行う主観的な評価の集まりのなかで、最終的に相対的な形で評価が定まっていくものだと思ってる
学問や研究なんかの世界で、客観的な立場にたって主観を排して厳密な評価をすることで正解を導きだそうとするみたいなところは確かにたくさんあるし、そういうので成果をあげる分野も確かにあるんだけど、逆にそういうのが全く意味をなさないっていう分野も少なくない訳で、文芸評論なんかだと、ぶっちゃけ客観的に評価したところで意味なんてなくね?文芸なんて結局のところ主観論ありきなんじゃないの?って思う
とりあえず傍論で批評を名乗ることの責任に触れたのであって、批評の存在意義を語りたかったわけではないが、あえて返すとだ。批評に意味がないというのは少し裁量というか極論に思う。
そもそも議論の目的は相手を負かすことじゃなく意見交換。日本というか儒教の影響が強い極東アジアはそこら辺履き違えてて議論自体を不毛みたいに思いがちだが、弁論法は学習や意思決定のアプローチの一つ。
文学にせよ文芸にせよ、というか表現活動全てにロジックはあるよ。少なくとも作者本人には大なり小なり、意識か無意識を問わなければ必ずね。それを本人あるいは人間にまだ言語化できないときがあるというだけだ。
アプローチが違うだけで学問における追求とさほど違いはない。人を感動させようというのなら実践的な心理学みたいなものでしょ。
仮にそれを作者本人は主観論的な感性で突き詰めたとしても、それは本人が自分の感性に頼ったというアプローチだっだけで、それが響いたという結果がある場合に、あるいは響かなかった場合に、それらを相性と済ませるだけでは社会にとって発展性がない。
つまり、批評というのは仮説の提唱だよ。ある感想がなぜ出るのかという仮説を出している。学問の世界だって仮説だらけ、極論数学以外の証明は相対的に最も優れた仮説でしかないだろう。
もちろん再現性の明確な物理学とかのそれよりは遥かに異論余地のある仮説だし真理ではないかもしれないが、逆に真理かもしれない。少なくとも相対的には論理性で信頼度の優劣はつく。
そうした批評家を参考にすることで他者は自分の知らないアプローチのヒントを得られる。理性的な批評というのはそれが肯定的であろうと否定的であろうと、読み手よりも書き手の道標になるわけだ。
また、考古学とかの仮説と同様にそもそも批評文それ自体が読み物として面白いものであったりもする。そういう文学形態ともいえる。
そして作品のロジックは、本人が説明すべきではないんだよ。
例えば現代アートがワケわからんのは模索が評価されてきた経緯ありき。写真への対抗などもあって、静止の切り取りではなく一定の時間を包含しようとしたのが印象派で、より多角的に情報を盛り込むために各構成要素を抽象化して再構築しようとしたのがキュビスムで、いっそ具象世界から丸きり離れようとしたのが抽象絵画。その中でアクションペインティングとか作品の作り方での模索が評価され、今はバンクシーのように活動スタンスの方が評価されたりしている。
さすがに行きすぎてるとは思うが、批評議論の活発化によって新しい価値やアートの創出が手助けされたりもする。
でも作品価値を作者本人に語らせると、そもそも本人が解説するのはダサいし、作者本人の説明の説得力で評価が左右されてそれこそ権威ある作者や論理的言語化の得意な作者とかに価値観が独占もされてしまう。それではやはり発展性がない。
だから作者とは別の人が第三者として価値を語ってあげる必要性が高い。
いわば、批評は作品の代弁でもある。
どんな意図で書いてるのかとかを推理して、作者の代わりにネタばらしをしてあげて、それによって作品がいかに優れているのかに説得力やお墨付きを与えたり、後世に残したりする。
もちろんそれが外れていたり、過大評価や過小評価を誘導したりもするし、あるいは批評家が恣意的に評価をコントロールするリスクもあるけど、批評家の方も一種の作家として叩かれるリスクや競争があるなら一定の公平性も担保される。
総括していうと、批評家は一種のパトロンみたいなもんかな。金じゃなくその人の言語能力や肩書きで芸術を支援してるというなら客観的な批評にも価値がある。
だから個人的に、読み手のために語ってるものは批評とは言い難い。読み手が判断に使うのは副次的な結果であって、理性的な批評家はまず創作や作家の味方であるべきだ。作品を否定的に語るとしても叱咤激励でないといけないし、活動全般としては良作の応援の方に注力している方が生産的な批評家。
悪く言えそうな作品ばかり探している奴ならモドキと言って差し支えない。