趣味のような仕事に対する偏見
この部長の発言が『趣味のような仕事に対する偏見』が詰まってて、わりと多く現実でもよく見られる光景で根深いよなーって思う。 pic.twitter.com/1Gjo2F2Qxz
— ゆーき(Manga artist) (@yuuki999) December 8, 2021

ただまあ…利根川さんが言うように多くの人間はそれだけのお金を稼ぐのに時間と苦労をかけるし分かりやすく共感しやすいので、部長のような人たちも皆がみんな、悪意があって言ってるわけではなく本当に理解し難いという感覚になるのもわからなくもないと思うのだw pic.twitter.com/NoMhNSRnVb
— ゆーき(Manga artist) (@yuuki999) December 8, 2021
みんなの反応
漫画家、アニメ制作、ゲームクリエイター、声優さんなどなどがよく言われるやつだ…最近だとYouTuberやVTubarとか
— ゼファルド@コミケC99A初日西南参加予定のラルさん (@Zefarudo) December 8, 2021
中川と麗子は現場見てる経営側なので理解を示している辺りもこのネタのミソ。
— タツコマ@一夫多妻 (@TATukoma1987) December 9, 2021
脳筋の部長には頭脳労働やクリエイター業の苦労や技術について概念から理解出来てない。元々部長が異様なメカ音痴なのも前提のネタ。
「変な話だけど歌が上手いとか素晴らしい文章を生み出せると言った"才能で稼ぐ"事を許してくれない国だよね」とタモリさんが言ってたのが忘れられないです。
— 大嶋光義 (@MitsuyosiO) December 9, 2021
いや、これはまた違ったはず。
— HiNA@アネモネ団長+ (@hina1256) December 8, 2021
現実のようなバーチャル世界を部長にやらせてみる話、だったかな?
萩尾望都のような大御所漫画家ですら長らく親に言われてたそうですからね……ゲーム脳の恐怖もプログラマーがモニター前でボーっとしてるのが仕事であるかのように見えた、というのが執筆理由らしいです。実は相当に根深い問題。
— クラウゼル (@crauzel_low) December 8, 2021

難しさの質が違うのよね
ディスカッション
コメント一覧
稼げる額に大きく差があるせいで、それが強い不公平感を招いてはいるよね。
そのあたり、しっくり来る考え方がまだ無いんでない?
それかそもそもその格差が良くないのかも。羨ましいやつはやればいいとか、そういう話でもない。金持ちが出来るからといって人間の臓器を買い占めるのがダメなのと同様に、そこに何かあるのでは。
リバタリアンがどうとか、資本主義がどうとか、社会主義がどうとかの話かなー?
自分自身や社会をどれだけ幸福にするかが尺度かも
だからたとえ合法であっても臓器買占めは憎悪されるし、違法にしろよの声も大きくなる
「楽して稼ぎやがって」の不公平感もまた幸福貢献度が見えにくいのもありそう
ユーチューブを全く見ない層であるほどユーチューバーの高収入は不当に感じてしまうとかさ
なるほど。しかし、限られた人が幸福をあらゆるところに与え、その与える機会や利益を刈り取ってもいいものなのだろうか?
出来るからといって、やっていいかどうか。(例えば誰も分けいれないアマゾンに入れるからといってその辺りの木を全て刈ってしまい人の役にたてて良いのか、惑星系の資源を枯渇させて良いのか?とか。人を幸福にする機会を刈り取り尽くしてイイのか?とか)
平均的な人々の何倍までなら許容されるべきなのか?とかもあるかなあ(利益をくれる人もある意味で利益をくれる仕事をしていて、その渡す利益が多すぎるとも考えられる。)
一方で、なんでそのやり取りを第3者に制限されなければいけないのかという問題もある。ただ、独禁法うんぬんとか。
利益の片寄りに関しては、ベーシックインカムや、収入を生産に関係する人に割り振る(サプライチェーン?で儲けを割るように考える)みたいな話が一部の是正になってくるのかな?所得税はもうあるけど、その根底にある考え方がどうかはうーん。
戦争や技術的革新も終わったし、儲けや分配を見直したり、いろんな粒度での内政を整えないとなあと。
述べてくれた幸せを与えてる対価のような根本的な考え方を、ほかにも幾つか用意しておかないと、
これから困窮の減っていくであろう自動化の社会では、神の世界のように人間関係の争い事が増えるだろうから(物資起因の争いではない、痴情のもつれとか、嫉妬、妬みとか)、やばそう。
さいとうなおき氏は、ある種社会貢献されてて、解決策の一例に思えるけど、
金や権力を稼いだら人前に出てイイ貴族パフォーマンス必要なんかなって。
(話がgdgd)
こういう人と人の権利と利益とみたいな話考えるの面白いわ。
人の抱く不公平感が何に由来するのか。感情論ですからあくまでも
じゃあ自分自身にとって社会にとって何が幸福なんだろうの議論はまた別ですよね
蛇足。感情論とはいえ適切な指標をいくつか選べば定量的統計的に扱えそうな気はします。サンプルがユーチューバーの高収入に対して抱く不公平感の大きさとか
感情も幸福の指標の一つかと。また、不公平感というものが単純に感情で片づけてイイのか?というのもありそう。
定量的統計的に扱うのは賛成。ただしその際には過去データだけ見ると良くなくて、どう考えればいいかをデザインするための指標や参考の一つとしてデータを扱うというのはありかなと。
過去データだけ見ちゃうと、過去の良くない習慣、パラダイム?、文化、考え方まで取り込んじゃうだろうし
これは例示がたくさん稼いだケースなだけで、趣味のような仕事全般への偏見としては単に=楽をしてるというのが侮蔑の本質では
仮に失敗しても自業自得だとバカにするだろう
大抵の人間にとって仕事と趣味は分けられていて、仕事は主観的にもコストや苦労というマイナスで趣味は主観的に人生を豊かにする利益だ。その観点からすれば趣味的・娯楽的な仕事を好きでやっていると主観的にコストを支払っていると言い難く、利益によって利益を得ているということになる。
あるいはそういう仕事の当たり外れの差が大きいことを踏まえるなら、その不公平感は格差よりも博打的だという印象論だろう。
個人的な目線では僻みだが、実際そういう仕事だけで社会は回らない。賭博が禁止されるのも社会の労働の価値認識を貶めるからで、楽して稼ごうという感覚を皆が持つと社会に不利益だからどこかで規制が必要など批判的姿勢も感情的不公平とは別の社会的正当性を持ってはいる。
格差や金持ち批判も初期条件の有利や元手の大きさが更に利益を生む=楽をしている点で似たような不公平感を抱くが、社会通念としての趣味っぽさ・娯楽っぽさはないからまた少し異なると思う。
金持ちは「楽ができるから楽をしている」のであって博打的人生ではない。「俺も金があれば」と同じ条件ならそれを活用するから、行為や選択には共感している。対して趣味的クリエイター職は「非現実的に楽をしようとしている」ように見えるから、金持ちとは違う夢想家的な印象というか、手段選択に共感性が乏しい。金持ちは条件のズルだが、クリエイターは手段や結果がズルに見えるというか。
どのみち、資本主義とかとはあまり関係ないと思う。労働についての価値観の違いで、「好きなことだけして生きよう」というスタンスに甘えだという反感が前提にあって、大金を得た結果にも尚更の反感が生じるだけの話かと
侮蔑かなぁ
羨望が近いと思うけど
たとえば年俸数億円のスポーツ選手と、同じ年収のユーチューバーやEスポーツ選手に対して
前者には羨望しつつも納得して、後者には羨望するけど納得できないとしたらその違いは何だろね
でもLEDでノーベル物理学賞取った人とか完全に趣味で仕事してたんですよね…
単なる権威的勘違いの部分と実際に中身がある部分があるからそこからこれはどっちって分けなきゃで面倒くさそう
(野球観戦・映画鑑賞は真っ当だけどアニメ鑑賞は幼稚って言われてた世代)
本人にとって主観的に趣味であることとは本質じゃないんよ、客観的に趣味であるという前提が必要
これは権威ももちろんあるけど、例えば学問なら学校の勉強として誰もが一端に触れていて、大抵の人はそれが楽しくなかったり嫌嫌やらされていたもの
客観的に難しい勉強というのは苦労でデメリットなんだよ
だからそれが本人には楽しかったとしても羨ましいとは思わないしズルいと感じにくい
もちろんそれなりに学者を遊んでるだけだとバカにしてる人もいるし、分野にもよってくるけどね
逆にゲームとか娯楽は勉強と違って皆好きなんだ
誰にとっても遊びとして経験して遊びと認識しているし、ゲームをするのが辛いという経験はあまりない
だから客観的に遊びなので、これを仕事に選ぶことは甘えに見える。もちろん仕事にすればそれは楽なことばかりじゃないし苦労もするんだが、そこに遊びでしかゲームをやっていない人間は共感が乏しい
漫画家や小説家も、絵が上手い・文章が上手いといった目に見える技術で普通書けないレベルに優れていれば、それは「遊び」と認識されない。多くの人が難しいことと既に理解している。でも絵は並とかラノベとか目に見えにくい技術と中身だけで売れてるものは、楽しい物語を読むという誰しもの遊びの延長に見えやすい。
上の人にもついでに答えると
スポーツも本質は遊びや娯楽だが、マジの部活では大変なことの方が圧倒的に多いというのを経験したり見てきたりしているから、そっちには苦労に共感性がある
「最大多数の最大幸福」あるいは「幸福貢献度」のような功利主義的な傾向をおびた制度設計には、行き過ぎた評価経済的な価値観や能力主義への懸念、少数派の抑圧や排除の可能性、人権のような道徳ないし倫理的な理念との衝突、といった様々な課題があるとは思う。(中国とかわかりやすい)
ただ、実社会というか現実的にはあらゆる面で社会のリソースというのは限られているので、人の素朴な実感から社会の在り方を考えるにあたっては、功利主義的なものが持つ説得力、訴求力、納得感、受容性というのはかなり強いし、その妥当性みたいなものをを考慮すると結局はそこから始めるしかないんちゃうかな、と最近思ったり思わなかったり。
いずれにせよ自分もかなり不勉強だからこれ以上のことは特に言えないんだけど、こういうことを考えるのが楽しいとか面白いと思う人が、こうして気軽に書けるとこがあるといいね。あとはギスギスした感じにならないとなおよしだけど。
功利主義的に最大幸福を求めて社会設計するのは別に間違ってないと思うけどな
ただし単純に総生産量ではなく、効用(幸福量)を計量しなきゃならん
年収が多いほど幸福量が大きくなると仮定したとしても、年収100倍で幸福量も100倍とはならないからね
逆に極端な貧困が幸福量を著しく低下させる側面もあるし、共産主義のような行き過ぎた平等は生産を阻害したりもする
それらを勘案して国民の幸福総量を最大化するような社会設計
具体的に数式で示したいけれど、どうしても撥ねられてしまう…
レスどうもありがとう!
以下は自分が功利主義についてよく知らないが故の見解ではあるのだけど。
例えば0.1%の国民が大いに割を食うが(ただし生命と最低限の衣食住は保障される)、そのおかげで残りの99.9%の国民が大いに潤う仕組みがあったとする。そして功利主義においては原理的にその仕組みを否定できない気がするんだ。あくまで理屈の上ではだけど。
より具体的には自国の少数民族に監視付きの強制労働を科すことで得た生産物の輸出によって外貨を獲得し、それによって国が富み、またそれが他の国民に還元されるといったケース。あるいはコンテンツの違法ダウンロードなど。
例えば交通事故によって体が動かなくなり労働が出来なくなった場合、つまり社会全体の幸福量に貢献できなくなった場合に、功利主義においてはその人の社会的な価値が認められづらいのではないか、というケース。具体的には生活保護や障害支援、介護にどの程度のコストを社会が支払うのか、など。
「幸福貢献度」が計測しにくそうなケース。例えば社会インフラ、医療などについてはある程度なら定量化できそうだけど、教育分野において人文系の学問がどれくらい幸福に貢献するのか、と言われるとかなり謎だし。また娯楽全般の「幸福貢献度」が計測可能か、と問われるとなかなか難しい気もする。
あとは単純に、幸福量についてそれが数値化ないし定量化できるとする立場と、できないとする立場があると思うけど後者は異端なのかな。どうなんだろう。0か1かで考えるものでもないのかもしれないけど。
スレタイからはだいぶ脱線して申し訳ない。
こうしていろいろと書いたんだけど、現実においては累進課税のような「稼げるやつからはたくさん税金とりまっせ」みたいな、絶対的な公平性よりも「国民の幸福総量」を優先した制度がすでにあるので、現実に即した制度設計の思想という意味では、こう消極的な賛成?みたいな立場です。
もしくは超長期的なスパンで考えたときには功利主義においても、自分があげたいくつかの例も包摂され充分に配慮されるべき、となるのかな。
行き過ぎた共産主義が、効率化のような改善や改良につながる競争原理を阻害するというのは同意です。あと具体的な数式、ちょっと見てみたかった!
0.1%と99.9%の例え、何が問題なのか分かりません
任意の国民にとって、どちらの人生になるか純粋に確率的に決定すると前提して
彼の人生における幸福の獲得期待値が最大となるようにセフティネットを設定する、それでいいのでは
頑張った者は報われる、頑張れない者はそれに準じた生活水準
それが健全な社会設計だと思います
拾いそびれてたけど年収の話は「限界効用逓減の法則」についてかな。
あと、いちおうコトバンクとウィキペディアで「功利主義」について読んできました。
繰り返しになるけども、
〉功利主義的に最大幸福を求めて社会設計するのは別に間違ってないと思うけどな
これ自体には何の異もないんだ。
しかしながら、社会設計の際の第一の理念、掲げるべき理念として賛同できるかと言うと自分はおそらくできない。極めて現実的に、法律の策定といった実務面においては功利主義的にならざるを得ない面は多々あると思うけど。
0.1%と99.9%の例について、少なくとも自分は「国民の幸福総量を最大化」のために強制労働させられるのはいやかなあ。
A
あーきみはこの地方のこの一族の生まれか。だったら職業は国内のとある鉱山で貴重な鉱石を発掘するための作業員になることに決まっとるんや。岩盤崩落で大けがとかするかもしれんけど、命は保障されてるし、各種の手当金といったセーフティーネットもめちゃ手厚いから。タコ部屋だけど住むとこもあるし、作業服も支給される。まあこれも「国民の幸福総量の最大化」のためや。よろしくな。
※生まれは当人が選べない、確立によって決まる例
B
今後わが国では介護に従事する人が大いに不足するので、クジ引きによって選ばれた健康な0.1%の国民に、今の仕事を止めて各介護施設のある地方に移住し介護職についてもらいます。このことによって介護が必要な人の不幸、その人の親族の苦労、現介護従事者の負担、国民全体の老後の不安感は減じ、「国民の幸福総量」はおおいに改善することとなるでしょう。
※クジ引きの結果は当然、純粋に確率的に決定される
この両者の場合、シンプルに職業選択の自由と居住移転の自由がないわけだも、要は自分は自由意志とか自己決定権といったことを尊ぶ人間なので、個々人の自由と平等、尊厳を出発点とするような理念が好きであり、だから功利主義ないし、先述のAとBのような事例に抵抗を覚えるのだ、ということだと思う。
つまりこれは、功利主義における「国民の幸福総量の最大化」と、個々人の自由と平等公平が両立せず衝突するケースがあるのではないか、という話であり、またその際にどちらを優先させるか、という価値観の相違と言ってもいいのかもしれない。
基本的にひぐまっちさんの功利主義における「国民の幸福総量の最大化」と「幸福貢献度」の話は、社会において
・価値が生じること、またその価値をどう評価するのか
という話なのだと自分は理解してるけど、こちらは逆に、
・価値が減じること、または価値を生み出す際に発生するコストの負担(不幸)をどう評価するのか
についての話を展開している感じかな。
自分が中国の話が大好きなのはめちゃくちゃ功利主義的に見えるからなんだよね。
ネットの検閲、BLのような同性愛コンテンツ、ソシャゲ、教育塾。これらを中国が規制するのも単に専制主義というよりかは、おそらくは全体最適のため、つまり現在を含め将来的な国家の維持、ひいては「国民の幸福総量の最大化」のためだと考えている。
以前、道徳についての話でコメ欄が盛り上がった時に、ひぐまっちさんが
「道徳は共同体のために個人に犠牲を強いるような形で持ち出されがちだ」
的なことをおっしゃられてた気がするんだけど、その辺りの整合性というのも、どう考えればいいんだろうか。
例えば道徳の最上位概念のひとつに、「すべての人間は目的として扱われるべきである」というものがあるが、これはむしろ功利主義と反目するように思える。功利主義においては、
「国民の幸福総量の最大化」のために個々人ないし少数派が手段として扱われ、結果として彼ないし彼らの自由や様々な権利が封殺されること
これを否とするためのロジックがその原理原則から言って形成できないのでは、という疑問もある。
えっと好き勝手にずらずら書いてしまったけど、なんか腹立ったり不快にさせてたらすいません。
ひぐまっちさんの意見を否定したいわけではなく、純粋に功利主義を推してる人がこの辺りの課題についてどう考えてるのか知りたくて。まあそもそも自分の勘違いなのかもしれないけどそれも含めて。
①かなり以前に書いた道徳教育批判をまさか覚えておられる方がいたとは!
上からも下からも感涙!
はい。道徳は大事ですが、それは行為者に損を被らせるものなので、道徳教育以前に功利主義的な損得勘定を教えた方が子どもたちにとってフェアであると思っています
②幸福貢献度は我々の不公平感がどこからくるのか、感情論のレベルで持ち出したものです
実際に幸福とは何か、幸福な社会とは何かの議論とは区別するべきではないでしょうかね
③そうそう、効用について述べました
功利主義者は自身や家族の人生において、幸福の獲得期待値が大きいほど「良い社会」であると考えます
それが例えば
【小幸福99.9%+大不幸0.1%】
だとしてもそれで期待値が最大化されるのならば僕には何の不満もないと思います
とはいえそれはフェアな制度とフェアな運用が前提ですので、Aのような門地差別制度の下ではそもそも成立しないのでは
フェアであるなら0.1%の大不幸を受け入れるのは別におかしな事とは思えません
たとえば国防、警察、消防の仕事は、お国のため社会のために命を落とすリスクが0.1%あるかもしれませんが、その職を選択することも十分に合理的ではないでしょうか
④中国の国家経営について、僕は功利主義的側面に大きく憧れますし、同時にアンフェアな側面を大きく嫌悪しています
アンフェアをとことん削ぎ落としてたどり着く社会とは、とことん明確な数式による制度設計と運用の自動化機械化ではないのか、そんな夢想すらしています
すごい、すごいよくわかる!
「功利主義の前提として、まずフェアであることが必要なはずだ」というお考えを確認できてよかった。そうであれば、
>功利主義者は自身や家族の人生において、幸福の獲得期待値が大きいほど「良い社会」であると考えます
これについてもとても納得できます。また如何に実利面において制度設計なりシステム運用を洗練させていくか、という点についても同意。
非常に明快な返信、感謝です。いろいろ勉強になりました。
フェアって言うと公平なのか公正なのか分かり難いですが、公正さ(もっと言うと目的の正当性と手段の合理性)と言う話だと思うので、
ツッコむとトートロジーにもなりかねないと言う…
言い出すとそもそも人間が人間の必要ある?と言うのもありますけど…
後稼げるところから云々系はそもそも所有制度自体が「社会的に目的をもって仮設計された制度」なので、
「絶対的公平性」と言うのの階層的段階の話を加えると「まぁ、別に不当じゃないよね」でおしまいですね
そもそも国家の領土主権の制定自体がトラブルを減らすと言う形で制定されてて「公平」な分配と言う訳ではないですから
(ぶっちゃけ突き詰めると法律なんて「まぁ、なんとなくうまくやってね」と言う抽象的な事柄に具体例入れてるだけですから、例外や情報不足って山ほどありますから)
基盤をよりフラットな状態に持って行て自然状態(全てが共有物)の状態を前提に考えると「制約」が掛かるのは「不公平」じゃなくて「より大きな公平」みたいのはあるって話ですね
その上で管理統制に違和感を持つのは「幸福」における「決定権」によって立つ部分の大きさだと思います
でも、失敗したい人ってあんまいないから少なくない人は
「失敗に耐えうると言う事も含めて正しく生まれて正しく判断して正しく生きる事が当たり前の生き物でありたい」と言う気持ちっを持つ人は少なくないのでしょうけどね
(なろう的比較優位を望む意味ではなく、誰もが失敗せず余裕があればよいよね的な意味)
ここで「生まれてしまった失敗作」の部分の処理で差は結構生まれてるんだろうなって言うのはあります
フェアであるというのはここでは単純に、辞書的な意味もしくは一般的な意味での公平さおよび公正さ、という理解の上でやり取りしてたかなあ。
また、公平さとはそもそも存在するのか、それが公平であるとどのように証明するのか、について問うと無限後退になるから、これもまた、
公平さというものがあると信じたい。
なので公平さがあると仮定するならば、それはどのようなものか。
といった思考の過程で充分だと思う。そしてこのような過程が、
・恣意的であること
・独断的であること
・不完全であること
についても自覚しているつもり。
公平さそのものについては今回の議論の対象ではなかったけど、それについて考えるのも非常に面白いと思う。(無限後退の話についてはhttp://yomisoku.com/archives/post-30558.html#comment-155796で書きますた。めちゃ長いけど参考までに)
累進課税の話については「能力の一切に関わらずその対象に画一的な基準を適用する」という意味での「絶対的な公平性」という記述なので特に深い意味はなく、公平の対となる「能力に応じて対象に適用する基準を変える」という考え方が平等である、というように自分は勝手に想定していた。
したがってもちろん自分も累進課税を不当だとは全く思っていない。この辺は説明不足だったかな。
返信の二つ目のコメント、自然状態の話までは理解できたけど、
> 「より大きな公平」
> 失敗したい人ってあんまいない
>「生まれてしまった失敗作」の部分の処理
このくだりについては自分の理解が追い付かなかったので、もしよければ詳細キボンヌ(死語)
あ、無限後退については私は公平さ・公正さは存在しないと言う話はしていません
そもそも公平さ公正さには目的がなければ成り立たないと言う話をしてるだけです
宇宙空間で自分がいる位置が上か下かを好き勝手語る事と、地球との関係を軸にどっちがいる位置が上か下か語る事は別です
目的を示さない公平さ公正さとは前者のような物ですから「話半分でしか聞く事は出来ない」と言う話です
後者は基準と意図がはっきりしていますが前者はしていないので、そもそもそこから考えないといけないですし、そこを「存在しない」様に語る様であればいよいよ「聞き流す」くらいが適切になってしまいます(ましてこちらが結構な精度で予測した意図や基準も否定して来るようなら、私には理解の及ばない話なのでもうちょっと纏められないなら失礼いたします、しかない)
より大きな公平と言うのは例えば漠然と上だ下だ行っている所に軸や基準を求め、更にその軸や基準と価値判断や対処の目的はなんであるかと掘り下げて行き、マントル層くらいまで掘り下げる事です
「本質的な感情の中心」まで掘る事ですね
しばしば言われますが、倫理と言うのは全て最後は感情論ですからね
感情抜きの倫理と言うのは存在しません
そこにあるのは行くべき道ではなく単なる「物理法則」ですからね
感情論なので「自分が優越感を感じたい」も理由になりますが、まぁ、同意を広く得るのは大変だと思いますけどね
それならせめて「何故優越しなければいけないと思うのか」と言う所に突っ込んで構造の「公正さ」について考えませんか?と言う話ですね
くだを巻きたくなった時の発散場所くらいは欲しいって話と根源的に「特別に正当である」って話違いますからね
後者になるとしばしば「倫理でも科学でもなく偽科学の領域」と言う話になりますからね
(大まかにちゃんとした倫理や科学は本来、生命観・世界観・理念それぞれの間のバランスがとれている物ですから)
> 失敗したい人ってあんまいない
この辺は自分が反出生主義だからすぐに出て来ると言うのが大きいかもしれません
私の感覚だとなろう系に多い「特別に正しい自分」と言う歪なデザインは、
恐らく根本は誤りに対する恐怖由来だと思います
自我執着とその恐怖が合わさった結果、あのようなデザインになっているだけで、
私みたいに「自分が自分じゃなければもっと良い選択を出来たのに」くらいまで行くと、
冷静に「人類がみんな失敗しないレベルの生物ならこの様な歪な欲望も生まれないだろう」
「何故わざわざランダムに任せて出来が悪かったら自分は関係ない面でブチ切れるのか理解が出来ない」と思うんですよね
>「生まれてしまった失敗作」の部分の処理
で、こちらなんですが、問題は「ランダムで失敗作作るけど措置がし切れない理由」ですが…
最終目的は「存在する生命の幸福と不幸の除去」なのですが、皮肉にも「決定権の行使」の幸福に占める割合は実に大きなものです
8割がこれなんじゃないかと思います
影響力の大きさ・適切さへの願望も含めると尚更ですね
つまり「自己決定し本質的(または表層的)欲求を満たす」事の幸福に関わる割合は非常に大きなものです
ですが「ランダムで失敗作を作る」を捨てると「決定権」を誰が行使しているのか?で少し迷ってしまう人がいると思うのです
私は「それがその時のその人でしょう」なので「目標が適切ならどうぞご自由に」なのですが…
その辺の差も含めて「犯罪者(生まれてしまった失敗作)」などを「どう見てどう扱うか」の差が生まれやすいのだと思います
私は「自我」に本質的価値はないと思ってるので「そもそも生まない」「産むような構造でほったらかして文句だけ言う奴が悪い」が正解でしょうって派閥ですね
返信ボタンが表示されないのでこちらから
アイゲスさんの 2021年12月18日 8:23 PM 宛のレス
まず一点。
>(ましてこちらが結構な精度で予測した意図や基準も否定して来るようなら、私には理解の及ばない話なのでもうちょっと纏められないなら失礼いたします、しかない)
これが具体的に何を指してるのか書いてもらえないと、自分の能力では察することができないです。ごめんなさい。
・この記事の、このコメント欄の、このツリーにおけるひぐまっちさんと自分とのやり取りを指してるのか。
・もしくは、自分のある特定のコメントのある一部分なのか。以前の別記事のコメント欄におけるアイゲスさんと自分とのやり取りを指しているのか。
後者であれば、自分としては全力で謝りたいと思う。なぜならアイゲスさんとのやり取りは、いつも面白いし楽しいと感じているので。
自分としてはただただ、自身の価値観、考え、感性が他者のそれと何がどう違うのか知ることに興味があるだけで、他者の価値観、考え、感性を否定するつもりは微塵もないのだけど、アイゲスさんとのやり取りの中で、アイゲスさんの「意図や基準」がこちらによって否定されたと感じさせてしまったのならば、それは純然たる自分の至らなさ、未熟さ、稚拙さだと思います。すいません。
また、あくまで自分の感覚からするとなんですが、アイゲスさんの文章は、
・随時あらわれる主語、述語、目的語、指示語などの省略による、てにをはの繋がりの独特さ
・話の意図やその対象範囲を規定するための語彙選択の基準の独自性
といった点からその意味が把握しづらい(しかし独特とは言え一貫性も法則性もある)、と感じるので、正直に言ってこちらの解釈や理解が妥当なのか、いつも不安だったり手探り状態だったりします。
これはもちろん自分の能力不足からくることですが、そのせいでいつもご面倒(説明、解説のし直しなど)をおかけして申し訳ない、とも思ってます。
二点目。
一連のやり取りで公正さについての話はおそらくしてないですね。自分のコメントにもひぐまっちさんのコメントにも「公正さ」という単語は書かれていないはず。つまり正当性、正しさについては問題にしていない。よくて限られた領域における、特定の価値観を前提とした適切さ、妥当さです。
また、このツリー内でのやり取りにおける公平さに関してその「目的、または基準と意図が存在しないかのように語っている」と見なされるのはいささか心外だなあ、と思います。
自分の馬鹿っぷりについてはともかく、ひぐまっちさんは
公平とは
自由とは
幸福とは
社会とは
道徳とは
これらについて歴史的な議論、思考の積み重ねを一定以上踏まえてると感じるし、それらが絶対のものではない、必ずしも自明とは言えない、比較相対されうる、という近代以降の思想というか考え方も抑えてると思います。(いつだったかヴィトゲンシュタインの言語ゲームの話をされていたはず)
一連のやり取りでは、自分とひぐまっちさんの間で文脈と前提をほぼほぼ共有できていたからこそ、単に公平さについての目的、基準、意図を明示していないだけだと思います。つまり、無視している訳でもなきものとして扱っているわけではない。論点ではなかったというのもありますしね。
その上で公平さの「目的、基準、意図」についての掘り下げが足りないとか、片手落ちだという批判であれば自分は甘んじて受けますが、掘り下げを目的とした議論や意見交換をされたいのであれば別途そのためのツリーを設け、文脈を整えてから始めればいいし、自分は歓迎します。
三点目。
より大きな公平についての説明ですが、それが自分のコメントの何に対する言及なのかやはりピンとこないです。すいません……。
> 感情抜きの倫理と言うのは存在しない
→ わかる
> それならせめて「何故優越 ~ 根源的に「特別に正当である」って話違いますからね
→ わからない。人がなぜ公平さを求めるのか、その動機の根源についての話なのか。“何の”構造の「公正さ」についての話なのか。
> くだを巻きたくなった時の ~ 「倫理でも科学でもなく偽科学の領域」と言う話になりますからね
→ わからない。何についての言及なのか。
> (大まかにちゃんとした倫理や科学は本来、生命観・世界観・理念それぞれの間のバランスがとれている物ですから)
→ わからない。まともな倫理や科学はバランスがとれていてまともだ、という話なのか。そうだとしてその話による結論は何なのか。
四点目。
いただいた返信の後半部分の解説、
> 失敗したい人ってあんまいない 以下 & >「生まれてしまった失敗作」の部分の処理 以下
この範囲についてもわかるようでわからないような……。
自分の不正確な解釈でこれ以上何か言っても、アイゲスさんにまたお手数かけるだけになりそうなので、あとは自分の側で時間をかけて消化したいと思います。
ただ、自己決定権が幸福にどの程度寄与するか、については個人的には幸福の定義によると思いますね。ざっくばらんに言えば、自分で自分のことを決められるからと言って幸福になれるとは限らない、と考えてます。
加えて自己決定権や自己といった概念そのものも西洋哲学的な概念であり、それが絶対で自明だとも思いません。単に自分がそれを好んでいる、というだけです。
そういった意味では、「自我」に本質的価値はない、これもまた充分にありだと思います。
ずるずると長くなりそうなのでここまでにしますが、もしアイゲスさんがご迷惑でなければまた自分に構っていただけるとたいへん嬉しいですね。図々しいお願いではありますが。
なろう系の解釈についても様々なものがあっていいと思ってるので、アイゲスさんの考えを知れてよかったし、なかなか興味深かったですよ!
反社や詐欺師や犯罪者だって直接間接関わらず金銭を得るための作業工程自体に時間使ってるでしょ
累進課税は公平のためというより、世界のあらゆる資源や資本の再分配のためであるべき、と思う。
宇宙が誕生して過去様々な経緯から、資本や資源が既に分配されてるわけだけど、特に人間が発生してからのその妥当性、正当性はかなり怪しいとも言えると思う(自然災害も公平平等ではないか)。
戦争、暴力、早い者勝ち、さまざまな理由で分配されてきた。それが過去の普通であったわけだが、そこに忌まわし行いがどうしてもつきまとう。忌まわしい過去の普通が終わったならイイ感じに再分配するべきでは?という。
既得権益を一旦、棚上げすればまあ変な筋ではないだろう。そして棚から下ろせば、その既得権益の正当性も怪しいわけだ。
まだ労力もなにも存在しない、無垢な資源はあらゆる人の共有財産であるのが望ましい。なぜなら人は互いに互いの権利を尊重するのが望ましいであろうから。
ある人の活動が活発になれば、摩擦がおき資源が磨耗する。それがその人の権利のなかに収まればよいが、ほかの資本や資源や資産に影響を与えるとなれば別だろう。人一人がその権利の箱庭のなかで成し得ることは、所詮は一人分でしかないとの制約があるためだ。
ゆえに、その制約を越える分については代わりのものとして再分配する必要がある。ただ、その再分配に利子がついているならそれを作った人に幾らか行くのは変ではない。とはいえあくまで権利者当人同士の話し合いが必要だ。
まああれやな、株っぽいな。あらゆるひとが産まれながらにあらゆるもののステークホルダー?株主?であり、それは互いの権利の尊重をするがゆえであり、それらは平等公平であるべきだ…的な。
こういう考えの下になぜか共産主義と思い込んでたが、書いてみると株式主義やな。
因みに、娯楽系の仕事に対する理解は進んできていると思う(偏見が残ってるとも思うけど)。なので、また今まで言われていたのとは異なる偏見があるんじゃないかなと考えた次第。
こういう話それ系の本読んだら、昔に全部もっとまともな形で書かれてるんやろうな。劣化車輪の再開発乙>>自分
偏見の理由は「役に立たない」からでは。
仕事(労働と対価)っていうのは生存の為に個人的にも社会的にも求められる事で、人間の義務。根本的には食糧生産や流通、住環境の構築、医療など。
一方で今回の例に挙げられるような職業は、そうした生存的な生産に関わりが無いもの(娯楽・趣味)のように見える。
生存に貢献するような生産が無いものに対して社会的な対価が支払われると、その対価は丸々社会への負担という事になる。
これが人間の、延いては人間社会の前提にあるから、生存に貢献しない(ように見える)活動に対して莫大な対価が生じると反感が生じるのではないかと思う。
感情としては不正や不公平を憎むのと同種。
スポーツ選手とかトップ営業マンとかいるから、「役に立たない」と言う思い込みですね
まぁ、人間は社会性の強い動物だからある程度他者の言葉って言うのは素直に聞いちゃうんだけど
(科学なんかもしっかり自分で検証しない時点で権威・大衆迎合の一種とも言える)
役に立たないというのは、趣味や娯楽分野の活動が、生存していく上での生産性に直接的に役に立たないという意味では?
スポーツ観戦や漫才バラエティは「直接的に」役に立つけどアニメや漫画・Vtuberは「直接的には」役に立たないって言うのが「思い込み」と言う話なんですが…
私が馬鹿だからかもしれないので役に立ち方の差を具体的に教えて頂けると助かります
〉スポーツ観戦や漫才バラエティは「直接的に」役に立つけどアニメや漫画・Vtuberは「直接的には」役に立たない
こんな事は誰も言ってませんよ
んー、さの質さんも匿名さんも言ってるのは「本来は野球選手とかも対象なんだけど、それは気が付いてないだけで直接役に立つかどうかでは?」と言う話ですかね?
私が一回目で言ったのは「野球選手・芸能関係・訪問営業みたいのが受容されてるから実際にそうかは重要じゃなくてイメージでしょう」って話で、
匿名さんが投稿時間も見た上でそれに対して「趣味や娯楽分野の活動が、生存していく上での生産性に直接的に役に立たないという意味では?」って言って来たと思ったので、
「だから野球や芸能みたいに高収入が認められてる物は役に立つから良いって言うならそれが思い込みでしょうって話をしてたんですが…」と言う話で返した訳です
匿名さんが言ったのがチェックミスとかではなく全く関係ない所へのレスだったなら、そう言う話ではしてないで終わりなのは確かなのですいません
まずは落ち着いて、思い込みを排してください。
アイゲスさんがずれた事を言っているので話が噛み合っていない状況です。
〉スポーツ観戦や漫才バラエティは「直接的に」役に立つ
〉野球や芸能みたいに高収入が認められてる物は役に立つから良い
さの質や匿名さんが、このような主張をしているとすればそれはどこの箇所においてなのか、具体的に、且つ正確に引用してみてください。
また、2021年12月17日 11:05 PMにおいてさの質が「何について」、どういう「言い方」をしているのかも、十分に考慮してください。
あー、ズレの理由が分かりました
「偏見の理由」だから「偏見の発生源」だけの話で、それが正当だったり恣意性がないか、他の除外条件がないどうかとは全く別の話なんですね
あと、さの質さんには本来私は「野球とかは役に立ってるって理屈を教えてね」って話はしてないですね
匿名さんが自分へのレスだと思ったから、と言う所がスタートですしね
まぁ、匿名さんのが自分へのレスだとしても頭の部分を踏まえると「ああ、言いたいのはそう言う事ね」と言う話ですけど…
会話の流れとしては
「偏見の理由はこれ」→
「そう言う偏見が機能してないこう言うのがあるから偏見の理由自体が基準のない思い込みでしかないでしょう」で、
私の解釈としては匿名さんが私の書き込みに対して
「役に立たないというのは、趣味や娯楽分野の活動が、生存していく上での生産性に直接的に役に立たないという意味では?」と言ってるのかと思ったんで
「だから実際にはそもそもその「役に立ってないから偏見を持つ」と言う中の「役に立ってない」自体が「基準がない偏見でしかない」でしょうって話を返した訳ですね
で、多分実際には匿名さんの書き込みは私宛だとしても「偏見の源泉を話しているだけで、除外条件の適切さやその起点自体がそれなりにまともな(基準と軸のある)認識であるかみたいな話はしてない」と言う事を言いたかっただけ、と言う感じでしょうね
私の書き込みへのレスでないならそもそも別の話ですし、私へのレスとした場合のずれは
「役に立たないというのは、趣味や娯楽分野の活動が、生存していく上での生産性に直接的に役に立たないという意味では?」
「最初からそう言う話で野球選手とかも同類だけど、大抵こう言う事言う奴は受け入れてるけどねって話をしてたんですが?」
と言う形ですね
正確には「どっちにせよ同じでしょう」と言う話ですけど
>>ぽこぽこさん
>>2021年12月19日 3:25 PM
ちょっと別スレにしましたが、全文だと蹴られるのでNG部分特定の為に小分けにしますね…
ああ、すいません
何がすれ違ってるのか良く分かりました
ひぐまっちさんやぽこぽこさんの事と言うより一般論でした
文脈の共有が私は出来ていないのはあるので、そこでこう言う一般論の話が変な風な横やりになってしまって混乱させたのだと思います
ひぐまっちさんの言う様な道徳を教えるより損得を教えた方が、
と言うのは自分もかなりの部分同意出来ますしね
(道徳って形骸化してしまいやすいので、ちゃんと背景まで伝えれないなら危ないと言うのもあります)
> それならせめて「何故優越 ~ 根源的に「特別に正当である」って話違いますからね
→ わからない。人がなぜ公平さを求めるのか、その動機の根源についての話なのか。“何の”構造の「公正さ」についての話なのか。
一般論なのであれですが、人間の傾向性や欲求って実は多くの場合完全に単独で形成されてきてない事が多いのです
例えばぽこぽこさんがこれだけで分かりそうだと思うのは「ホモソーシャル」と「性欲の形態と女性憎悪・女性への支配欲求の構造」などです
「本当に求めてるのは男(社会)に認められる事なのにそこに作られた手段の方に憎悪向けるからおかしくなる」
「そもそも男社会も好きで自分の選択で参与したのではなく、社会構造の強制力で参加しただけだから、根本的な敵はそっちでしょう」って話ですね
> くだを巻きたくなった時の ~ 「倫理でも科学でもなく偽科学の領域」と言う話になりますからね
→ わからない。何についての言及なのか。
これも基本は一般論の話でした
具体例としては男性の性欲を自然のシステムだからと擁護したり、存続を生命は子孫を残そうとする物だからと、道徳的に正しい、みたいな話にしてしまう事についてですね
これ、自分で道徳的基準を選んでる訳ではなく権威に従ってるだけなのです
だってそれの「本性」と「そこから生まれる価値(感情)」と言う構造ではなく、「ただそう言う性質だから」と言うだけなら「犯罪も非婚もそう言う性質だから起きてる」訳ですからね
この様な「一貫しない現状維持主義や非罪化」は「自然主義的誤謬」と言う名前も作られています
(つまり自然であると言う事が全ての道徳倫理の根拠となると言いながら、ある所で原理主義的に道徳的正当性として用いながら、ある場面では平気で「自然に反した」倫理を持ち出す
更に実際には多くの場合「自然であるかどうか」「本能的であるかどうか」と言う部分すら積極的に捻じ曲げてしまう
性欲は三大欲求だから仕方ない、みたいのもそれ
性依存症や対象選別に至る経過など見れば「本能と言うより思想・印象」なのは案外すぐ分かる)
逆に道徳その物が実存を即座に超越すると考える物は「道徳主義的誤謬」と言われます
> (大まかにちゃんとした倫理や科学は本来、生命観・世界観・理念それぞれの間のバランスがとれている物ですから)
→ わからない。まともな倫理や科学はバランスがとれていてまともだ、という話なのか。そうだとしてその話による結論は何なのか。
バランスと言う言い方が悪かった気がしますが、相関性がある程度統一性を持つ、と言う話ですね
統一性なので世間一般と逸脱しているかは大した問題ではなく、「その論理の中での統一性」です
まともと言う基準をこの「統一性」に求めるとするなら「まともな倫理や科学は統一性が必要分程度には有している」と言うのはその通りです
バーン様みたいに自分が負けそうな段になっても「そうだよ!負ける奴が悪い!勝てばよい!」って言うなら、それは「まとも」と言う訳ですね
逆にマキャベリストとかが内心抱えている様な「勝てばよかろうなのだ・騙される奴が悪い・捕まる奴が悪い」&「俺が負けるこの世界はおかしい」みたいのは「まともではない」訳です
まぁ、議論のレイヤーや規模が違って前者が規模が小さく表層的部分、後者がより規模が大きく深い部分と言うなら「まとも」な可能性もありますけどね
でもその場合今度はその「どっちがより大きく深い部分の思想か」と言う部分で「成り立たない」為に「まともでない」となるパターンも多いですけどね
結論と言われると「この辺意識して見てみると良いと思います」って話なだけなので…そんなかっちりした者ではないです
> くだを巻きたくなった時の ~ 「倫理でも科学でもなく偽科学の領域」と言う話になりますからね
→ わからない。何についての言及なのか。
これも基本は一般論の話でした
具体例としては男性の性欲を自然のシステムだからと擁護したり、存続を生命は子孫を残そうとする物だからと、道徳的に正しい、みたいな話にしてしまう事についてですね
これ、論として採用してる人を見るとしばしば自分で道徳的基準を選んでる訳ではなく権力を選び取ってるだけなんですよね
だってそれの「本性」と「そこから生まれる価値(感情)」と言う構造ではなく、「ただそう言う性質だから」と言うだけなら「犯罪も非婚もそう言う性質だから起きてる」訳ですからね
この様な「一貫しない現状維持主義や非罪化」は「自然主義的誤謬」と言う名前も作られています
(つまり自然であると言う事が全ての道徳倫理の根拠となると言いながら、ある所で原理主義的に道徳的正当性として用いながら、ある場面では平気で「自然に反した」倫理を持ち出す
更に実際には多くの場合「自然であるかどうか」「本能的であるかどうか」と言う部分すら積極的に捻じ曲げてしまう
性欲は三大欲求だから仕方ない、みたいのもそれ
性依存症や対象選別に至る経過など見れば「本能と言うより思想・印象」なのは案外すぐ分かる)
逆に道徳その物が実存を即座に超越すると考える物は「道徳主義的誤謬」と言われます
> (大まかにちゃんとした倫理や科学は本来、生命観・世界観・理念それぞれの間のバランスがとれている物ですから)
→ わからない。まともな倫理や科学はバランスがとれていてまともだ、という話なのか。そうだとしてその話による結論は何なのか。
バランスと言う言い方が悪かった気がしますが、相関性がある程度統一性を持つ、と言う話ですね
統一性なので世間一般と逸脱しているかは大した問題ではなく、「その論理の中での統一性」です
まともと言う基準をこの「統一性」に求めるとするなら「まともな倫理や科学は統一性が必要分程度には有している」と言うのはその通りです
バーン様みたいに自分が負けそうな段になっても「そうだよ!負ける奴が悪い!勝てばよい!」って言うなら、それは「まとも」と言う訳ですね
逆にマキャベリストとかが内心抱えている様な「勝てばよかろうなのだ・騙される奴が悪い・捕まる奴が悪い」&「俺が負けるこの世界はおかしい」みたいのは…と言う訳です
まぁ、議論のレイヤーや規模が違って前者が規模が小さく表層的部分、後者がより規模が大きく深い部分と言うなら「まとも」な可能性もありますけどね
でもその場合今度はその「どっちがより大きく深い部分の思想か」と言う部分で「成り立たない」為に「ないわー」となるパターンも多いですけどね
結論と言われると「この辺意識して見てみると良いと思います」って話なだけなので…そんなかっちりした物ではないです
めちゃくちゃ丁寧に返信いただいてありがとうございます。全部読みますので!
まずはお礼を!
>>ただ、自己決定権が幸福にどの程度寄与するか、については個人的には幸福の定義によると思いますね。
>>ざっくばらんに言えば、自分で自分のことを決められるからと言って幸福になれるとは限らない、と考えてます。
これは元々中国の統制主義に対する忌避との絡みで出した話なので…その話として出しました
「何故忌避感が生まれるか」と言うのを「功利主義的観点から説明出来ると思いますよ」って話ですね
幸福の定義によると言う点について、それはそうなのですが、大抵の人は多分「感じる物」が大きな基準だと思います
そして幸福を感じる状態は「変化させようとしない」と言う自己決定を行いますから…「自己決定をしたから幸せになれる訳ではない」と言うのは人間の愚かさを思えばある程度事実ですが、
「自己決定に反した状態は基本的に不満感が付きまとう」と言うのは更にずっと確率的に高いので、「自己決定は幸福度に関係ない」と雑に扱うのもどうかな?と思います
当然「幸福を感じる事がなくても物質的に幸福なら良い」と言う価値観もありだとは思いますけどね
ただ、とは言え、多くの人は「配慮の必要な対象」と言うのは「感性を備えた存在」としているのではないかと思います
で、そこを切り捨てて物質至上主義に本気でそこに突っ走り切れる人どれくらいいる?って話ですね(結局後で大抵の人は自己矛盾で苦しむのでは?てか自滅してる人しか大抵見た事がないと言う話)
「単に影響力が強い存在か弱い存在かだよ」って言うのもありですけど、そうなれば「共感」と言うのは「演技でしょう」となってしまいますからね
そう言う「世界観と理念と生命観の統一性保てる人どれくらいいる?」って話ですね
逆にきっちり統一感保ててるなら「そうだね、そう言う考えもあるよね」と言うのはやぶさかではないですが…
まぁ、私が出くわしたそれ系の論を持ち出す人はほぼほぼ「自己破綻してる人」でしかありませんでしたからね…
雑にヴィーガンを見下す人なんかもそうですけど、「動物虐待は見るのは不快」「犯罪者は嫌い」「でも食肉生産における動物への配慮は偽善」と言う人がいますが…
「動物虐待がどこのポイントで不快なの?」とかそう言う話詰められない人が多いんですよね…
「猫と犬だけじゃなくて牛や豚も嫌な人も居るよね」とか言うのは当たり前の視点を「出せない」人ですね
そうなってしまうと「単なる逃げでしょう?真面目に理想状態は感じない事なんだけど出来ないって葛藤抱えてる様にも見えないし」って話になってしまうんですよね…
金を得られている以上どんなことをしていても誰かの役にたってんだけどね。
誰かの役に立たない金の稼ぎ方は犯罪として取り締まられるけど。