なろう小説は低俗って言われるけど
べつになろう小説が、というかライトノベル全般が低俗でいいんですよ。
— 寿甘(すあま) (@sweet_suama) December 16, 2021
大衆向けの娯楽というのは低俗なものです。
高尚なものを大衆は喜ばないです。
低俗であれば見下していいわけではないというだけの話。
変に高尚を気取るから反発を受けるんですよ。

みんなの反応
スナック菓子に高級感を求めるべきかと言われると、そうではないのと一緒ですね。
— サナギ雄也@小説家になろう・カクヨム (@sanagi_yuuya) December 17, 2021
気軽な娯楽として機能していればいい。
ラノベだとなめられる風潮がラノベが生まれて約30年は経つのにありますよね
— 本田すみれ(カクヨム+小説家になろう) (@neko2teikoku) December 17, 2021
たくさんアニメ化されてるのにもかかわらず
そもそも、高尚な作品とかあったけ? みたいな
— なつめ猫 (@natsumeneko0) December 16, 2021
マジでこれ
— くぬたま@本気出せよ (@kunutama) December 17, 2021
娯楽に綺麗事の押し付けなんかいらんのよ https://t.co/kpT8sMQdku

欲望丸出しで行こうね!
ディスカッション
コメント一覧
書籍化したいです!高評価お願いします!
って素直に言うほうが気持ちいいまで来てる
でも仮に態度が潔くても肝心の作品の中身自体が結局陰湿だから気持ち悪いよ
過去の高尚は強がり
今では素直さと、それに向き合う自分というのが高尚になってる。
あれ?高尚ってなんだっけ?
また論点そらしw
陰湿で過剰な私的制裁を喜ぶメンタリティが俗の平均値だって意識をまき散らさすこと自体惨めだわ
言わせときゃいいんだよ
文学というか、小説そのものがそういう歴史をたどってるんだから
「大衆文学」として低俗って言われた時代があって
ジュブナイル文学は低俗って言われた時代があって
ヤングアダルト、ライトノベルは低俗って言われた時代があって
今なろう系は低俗って言われてる
ただそれだけ
それはそうなんだけど、小説→ラノベ→なろうとどんどん低俗の下限を突破していくんですが、それは…
そもそも低俗なのがダメじゃなくて巣から出てくるのがダメ
雉も鳴かずばだぞ
ラノベより酷い文章や内容の物語は存在しない
そんな風に考えていた時期が僕にもありました・・・
そう見えるだけだよ
結局のところ変わらない
そのうちなろうより低俗だって言われるものや感じるものが出てくるだけ
なろう系はガチの奴は植民地ロマンスやインセルの教典、
嘲笑系バラエティ、冷笑系バラエティで話終わるから、出てくると言うより既に存在はしてる
寧ろリアルの対象に了解無しでやってる分、分かってないの確定の奴
なろう系との対立軸はそういう部分を芯まで理解してるかしてないか、芯までは理解してない事を理解した上でやってるかの部分の認識ですね
インセルの思想が批判されてるのもそう言う部分でモテない男やダメ人間な事じゃないからね
フィクションの中のリアリティとして書いてる部分の「それがリアリティがある、そうであるべきだからそうしてる(思想や理念)、と思う作者や読者の認識、思想」は現実だからね
そういう部分すら誤魔化そうとすると「相手が嫌がってる弄りを相手が怒ったら冗談だよって言って逃げるけど、嫌がらせるのが目的で肝心の部分全然冗談じゃないよね?」と言うのと同じになるからね
もっとフィクションだけじゃなくて世の中気楽に生きようぜ、強い奴が横暴するのは仕方ないし生物としてはいっそ正しいだろ
ってスタンスなら知らんけど、
(出会った誰より)優しいだのみたいな話しにされると「優しいって言われてチヤホヤされるのきんもちよいなぁ、自分が何者かなんて問題じゃない、周りの評価こそが自分の全てだからね」くらい突き抜けてないと「これで優しいって言われて、そうでしょう?俺優しいでしょう?惚れちゃった?セックスしたくなった?とかやって来そうなやつとか、キモい御遠慮させて頂きますしかない」ってなるからね
「どんどん低俗化している」じゃなくて「どんどん新しいスタンダードが生まれている」だけなんだよな
それに気づかず「昔は良かった」としか言えない人間から老害化していく
(何かしらに関する)程度と俗っぽさの二つの要素、そして仮にそれぞれの度合いを低中高としたとき、少なくともそれらのパターンは高尚と低俗の2パターンには収まらない。
そこに、切り口を変えたり増やしたりして評価する次元を増減させればどうなるか?
義務教育というものはまだまだ改善の余地があるようで。
およそどのような価値判断も、その判断基準に紛れ込む恣意性からは逃れえない。
これはまったくその通り。
その上で、もしちっぱいさんが、
・恣意的でないこと
・様々な価値観を比べて、フラットな見方をすること
これらを志向しているならば、
A 恣意的な価値観によって恣意的な言動をすること
B 恣意的でない価値観によって恣意的でない言動をすること
この両者の振る舞いの中で”あえて”Bを選ぶというメタレベルの、一つ上の抽象度・階層における「恣意性」がある、ということにも気づけるはずだし、またBを選ぶならば、論理的にはAとBの両者に優劣をつけることはできない、ということもわかるはず。
さらには、”もし仮に”ちっぱいさんがAのような人たちを目撃して、それを快く思わなかったり腹が立ったりしたのだとしたら、自身の感性がどのような価値観に根差しているのかは明らかだし、逆に「Aのような人たちにそなわる、何かに憤るという感覚が発生するメカニズムそのもの」についてもメタ認知によって想像がつくはず。
伝統的なキリスト教における人工妊娠中絶の禁止は、絶対に改められるべきか。
美容整形を一切認めない人達の価値観は、全員その認識を改めるべきか。
自分は棲み分けしかないと思うし、それを考えられるのはメタ認知の能力をもった人の、ある種のノブレス・オブリージュのようなものだと考えてる。たいへん傲慢な言い方かもしれないかど。
述べられたことはよくわかります。
多様性や住み分けの容認もそもそも思想の一つで恣意的。恣意的でない評価が出来るとして、そういった評価をしろというのも恣意的。
しかし、様々な評価軸が存在するのは事実であり、その軸と重み係数の設定とそれらの組み合わせにより数多の評価関数が存在するのも事実。
それをあたかも自分が選んだ評価関数しか存在しないかのように、高尚、低俗というのは、事実と反している、というのが私の考えです。
恣意的でない評価をしろという主張ではなく、評価関数なんか無限にあるし、デザインの仕方で低俗高尚なんか入れ替わるし、値の値域が2パターン×2パターンて…。というね。
追記
恣意的であるべき領域とないべき領域や、項目もあるかと。力を力で止めてはいけないという話がおかしいのと同様に(おかしくないときもあるが)。
自分が一番伝えたいことは、ちっぱいさんぐらいメタ認知の能力が高ければ、
「評価関数なんか無限にあるという事実を、否定的な決めつけ無しには認識できないAのような人達」
このような認知的不協和を抱えざるを得ない彼らが起こす軋轢、これを別の形で捉え直すことができるんじゃないか、という事なんだ。
例えば、
小説のような虚構(フィクション)においては、様々な価値観の様々な人々がいることで、これらの衝突、融和、同化、ないしは固着(例:悪い考えの登場人物が変わることが出来ず、それ故に滅ぶといったような)が発生し、それが様々な物語を生む。
では現実においてはどうか。
もちろん人は虚構の中で生きているわけではないから、現実で価値観の違いから隣にいる人に包丁で刺されるようなことはあってはならないんだが(追記への返し)、そうでない範囲でならAのような人たちに対して、こうある種の面白み、趣きを見出すことはできないだろうか。
これはあくまで一例に過ぎないけど、こうした価値の転換、反転を含むようなアクロバティックな思考や認識が可能なのは、やはりメタ認知の能力に秀でた人でないと無理なのかなと考えていて。
だから、なんて言うかこういったコメント欄などにおける文字間でのやり取りにおける不毛さを、少しでも減らせないかなっていう想いから、ちっぱいさんに思わず返信してしまいました。
まあ余計なお世話すぎるし、あまりにもウザすぎる一方的な押し付けなんですが……。
よってこのコメントの返信はなくても大丈夫です。たいへん失礼しました。