朽ちていった命
カバー写真=©David Sacks/Getty Images 発行所=新潮社

1999年9月、茨城県東海村で臨界事故が起きた当時、僕は15歳でした。もう世の中のことに関心を持ってもいい年齢ですが、大人になってこの本と出会った時、東海村臨界事故のことは一切記憶になかったので、当時の僕がいかに無関心だったかということがよくわかります。

そんな僕でもさすがに阪神淡路大震災(1995年)や地下鉄サリン事件(同年)のことはずっと覚えていました。東海村臨界事故も極めて重大な事故だったはずですが、僕が忘れてしまったのは、ニュースとしての扱いが小さかったからでしょうか。あるいは、繰り返し報じられなかったからでしょうか。いずれにせよ僕の中では完全に「風化」していたのです。
広島・長崎に原爆が落ちた直後の絵や写真は、日本人なら大半の人が見たことがあるでしょう。ですから、「原爆」の恐ろしさはみんな感覚的に理解しています。しかし、「放射線」の恐ろしさを知っている人は少ないと思います。メカニズム的な意味でなく、感覚的に――です。チェルノブイリの廃墟の写真とかレントゲン室の警告マークを見るぐらいしか、放射線の恐ろしさを感じる機会はないのではないでしょうか。「目に見えないから恐ろしい」という側面もありますが……

原子爆弾には「爆風」や「熱線」の威力も含まれているので、東海村臨界事故は――語弊を恐れずに言えば――純粋に「放射線」だけの破壊力を知る貴重なサンプルと言えます。

本書は、事故で大量の放射線を浴びた大内久さんがその後の83日間、どのような経過をたどったかという克明な記録です。カラー写真も添えられています。つまり、放射線の恐ろしさを感覚的に知ることができるのです。

被曝2日目の様子は次のように書かれています。

顔面が少し赤くなって、むくみ、白目の部分がちょっと充血しているなと感じたが、皮膚が焼けただれているわけでもなく、はがれ落ちているわけでもなかった。水ぶくれさえなかった。意識もしっかりしていた。医師の目にも重い放射線障害があるとは見えなかった。
NHK「東海村臨界事故」取材班『朽ちていった命』p.24 発行所=新潮社

一見、重症には見えません。しかし、放射線は大内さんの内部の「再生する力」をほとんど完全に破壊していました。ちょっとした傷が致命傷になりかねないので、手術はもちろん清拭さえ慎重にならざるを得ないのです。治療チームの苦闘を読むと、ほとんどの「医療行為」は患者の自己治癒力を前提としているということに気づかされます。

大内さんとその家族、医療チームがどんな戦いをしたか――みんながそれを知った上で、原子力発電の是非を議論してほしいと思っています。安直に「こんなに恐ろしいんだからやめるべきだ」ということではありません。恐ろしさを感覚的に知って、それでも推進していくという意見が多数を占めるなら、民主主義国家としては推進していくことになるでしょう。ただ、知りもしないで議論するなと言いたいわけです。



また、本書は「安全管理」に対して警鐘を鳴らすものでもあります。東海村臨界事故は、現場で指示された違反行為が原因で起こりました。作業を効率化する「裏マニュアル」が作られていて、当日はその裏マニュアルよりさらに簡素な方法が用いられていました。

「上」が完璧なマニュアルを作ったつもりでも「現場」はそういうことをするのです。これは、ある程度の規模の集団ならどこでも起こっていることです。

システムを構築した本人が、「単独で」、「鋼の意思で」使うなら、エラーは絶対に起こらないでしょう。しかし、実際には「さまざまな個性の」、「他人が」使うのですから、エラーが絶対に起こらないというのはひどく浅い考えと言わざるを得ません。



さらに、本書は「終末医療」はどうあるべきかという問題も投げかけています。被曝11日目から人工呼吸管理が始まりました。患者の言葉が聞けない状況下で、ほとんど助かる見込みのない「治療」を、いつまで、どんな顔で続ければいいのか、スタッフ全員が煩悶していました。

後日行われたインタヴューでは、「きっと生き続けたいと思っていたはず」と答える人もいれば、「つらいことを強いてしまったのではないか」と答えている人もいます。明確な正解など出ようはずもありませんが、一つだけ明らかなのは――陳腐な言い方になりますが――この事故を忘れてはいけない、ということです。




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